tag:blogger.com,1999:blog-46496591342416558592024-03-14T04:15:28.049+09:00てよみ手帖てよみhttp://www.blogger.com/profile/13418012544538145754noreply@blogger.comBlogger26125tag:blogger.com,1999:blog-4649659134241655859.post-71287172313548151392023-11-21T11:41:00.000+09:002023-11-21T11:41:14.571+09:00ラッキー変換 うちにはたくさんのラッキーアイテムがある。これを書いているスマホも、部屋のカーテンも、毎日履いてるスニーカーも、壁にかけた絵もその額も、ぜんぶラッキーアイテムだ。<p> なんでそんなにたくさんあるのかというと、とある占いで「開運の日」に買ったものは全てラッキーアイテムになると知り、それにならって買ったものだらけだからである。</p><p> 去年の引っ越しでは、風水でよい方角(吉方位)になるようにタイミングを調べて引っ越す日にちを決めた。引っ越す前のがらんとした部屋には、盛り塩と御神酒でしっかりお清めもした。</p><p> そんなよい方位に引っ越して、きよらかな家でラッキーアイテムにかこまれて暮らしていた私は、今年の夏とつぜんに、ちょっとしんどい病気にかかり2ヶ月ほど入院した。</p><p> 悪いところはゴッドハンド先生が丸っと治してくれて、いまはまた元の生活に戻れているけど、右手のしびれと脚のぐらつきという、痛くはないし、生きていくのに大きな不便もないけど、一度気になりだすともやもや気になってしまう後遺症が残った。</p><p> さて、私はラッキーなんだろうか? それとも?</p><p>「たくさんよいとされることをしたところで病気になったんじゃ意味なかったじゃん!」と思うのか。</p><p>「数あるラッキーアイテムと吉方位のおかげで「それくらい」ですんでラッキー!」と思うのか。</p><p> この手の問いに答えは、ない。</p><p> 答えがないのなら自分で答えを決めたらいい。もちろん、私は「ラッキー」の方にした。</p><p> しかし、つらかった経験を力づくでラッキー変換することほど危ないことはない。</p><p>「私はツイてる!」と何度となえたところで、胸がきゅうきゅうとして眠れなかったりしたら、心がまだ大丈夫じゃない証拠。なので、ラッキー変換においては慎重にことを運ぼう。<br /></p><p> ムリなくラッキー変換するには、パンをつくるのといっしょで時短してはいけないのだ。</p><p> まずはあるがままに、うじうじ、しくしく、湿度と温もりをあたえて心を発酵させよう。自分が思うよりもずっと傷ついていたり、弱っていることを無視せずに、とことんつきあう時間だ。</p><p> そんな、何もする気がせずに部屋のすみをぼんやり見ているような日が続いても、心は少しずつエネルギーを取り戻していく。大丈夫。</p><p> むくむくと心がふくらんできたところで、誰かに話を聞いてもらったりして「ガス抜き」をするのも大事な工程だ。一人でぱんぱんにふくらみすぎないように。</p><p> 話す人がいなかったら、散歩して心を外気にさらしていこう。海に行くなんてとてもいい。そして疲れたらまた、赤ちゃんの頭をなでるようにやさしく心を寝かしつける。ここでベンチタイムだ。</p><p> それは、本人にとっても周囲の人にとっても、なかなかしんどい期間ではあるけど、これらの工程を省いて急いでラッキー変換しようとすると、心はおびえてかたくなってしまう。そうなると、ラッキー変換すること自体に自分が傷ついてしまうから、注意しなくてはいけない。</p><p> そうやって、やっとこさ、つらかった経験をラッキー変換できるときはくる。 <br /></p><p> ラッキーはアイテムを集めたところでやってはこない。ただ、「ラッキーでありたい」と願うとき、明日を信じておそるおそる伸ばす手に、そっと勇気をそそいでくれるもの。それがラッキーアイテムの意味なのかもしれない。</p><p> <table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjA1aJ9m-xtiXcEXLp33I34x3mXbYeYXX9G4BtgPWwVFVVzStbx4mYe0cgJ6Pkeo4mp1KWAz1Z0IVsyegOEA0uGw8tg4qhB1LLxE9UWtIOy9dQrdc31Cby3TXl_ECQ3RFu9rCjVPZzUYtluI6oqHK3nRSTygti-oIRo84KT_s2lBKc8TFTQv7ncCR7TlI5X/s2762/IMG_1124.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="2762" data-original-width="2762" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjA1aJ9m-xtiXcEXLp33I34x3mXbYeYXX9G4BtgPWwVFVVzStbx4mYe0cgJ6Pkeo4mp1KWAz1Z0IVsyegOEA0uGw8tg4qhB1LLxE9UWtIOy9dQrdc31Cby3TXl_ECQ3RFu9rCjVPZzUYtluI6oqHK3nRSTygti-oIRo84KT_s2lBKc8TFTQv7ncCR7TlI5X/s320/IMG_1124.jpg" width="320" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">シルクスクリーンが美しいわが家じまんのラッキー画。<br />よく見ると魚を捕まえる鳥が悪い顔してていい。<br /></td></tr></tbody></table><br /> <br /></p>てよみhttp://www.blogger.com/profile/13418012544538145754noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-4649659134241655859.post-80965681168699750872023-10-05T16:01:00.000+09:002023-10-05T16:01:56.922+09:00五感選手権(あらためて「てよみ」について)<p> 五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)のなかでコミュニケーション選手権をしたらどれがいちばん強いだろうか?</p><p> ふと、そんなことを考えた。 <br /></p><p> やはり、情報伝達量ぶっちぎりの視覚だろうか? いやいや、耳元でささやくなど親密ワザもある聴覚なのでは? でも、においの記憶というのはいちばん忘れないというし、おいしいというアプローチに勝る好意もなかなかない。</p><p> しかし、見る、聞く、嗅ぐ、食べるよりも、ずっと他者を必要とする五感といえば触覚、「触れる」ではないだろうか。</p><p> 例えば、片思いの人に触れたときのドキドキは、その人を見たり、その人の声を聞いたり、その人のにおいを嗅いだり、その人の作ったお弁当を食べたりしたときのドキドキよりも勝る気がする(まあ、どれもドキドキはするだろうけど)。</p><p> 触れるという行為は、触れたとたんに触れられているという点で、とても不思議な感覚だ。何より、見ること(映像、写真)や聴くこと(音楽)みたいにコピーしたり電波にのせたりできないし、においや味みたいに容器につめて届けることもできない。直接的で、動物的で、相手(対象)がそこにいなければ成立しない、五感のなかでもいちばん不自由な感覚ともいえる。</p><p> てよみをしていてお客さんの手のひらに触れていると、その厚み、質感、温度、湿り気などが私の手のひらにじかに伝わってくる。そこには、言葉未然の情報がたくさん宿っていて、私はそれらを自然によみとることとなる。お医者さんやマッサージ師など人の身体に触れる仕事の人は、きっとみんなそういうことをしているのではないかと思う。</p><p> 人に触れて(触れられて)感じとること。そこから言葉にして伝え合うこと。その往復運動で、コミュニケーションは深まっていく。</p><p> 手相は「相術」という分野の占いで、顔相や風水などと同じく“ものの形”から占うものだけど、相手に触れながら伝えるという意味では唯一無二の占いだと思う(もしかして足をおさわりしながら占う人とかいるかもしれないが)。</p><p> コロナ中に「てよみのてがみ」と称して、手相の写真を拝見してお手紙を書くという形式のてよみを試みたことがあったけど、目だけの情報にとてもいきづまった覚えがある。写真のなかの手をガン見して、やわらかさや質感をなんとかイメージし、やっとこさ言葉をおろしてきたような感じだった。正直、もうあまりやりたくない。</p><p> ということで、私のてよみは対面のみです。てよみ中は遠慮なくあなたの手をぷにぷにしまくります。コピーも、早送りも、箱につめて持って帰ったりもできない、とても不便な占いですが、ネットにはのっていないあなただけの情報を知ることができるかもしれません。</p><p> ご機会あればどうぞおたずねくださいませ。</p><p><a href="https://coubic.com/teyomi/3754765" target="_blank">てよみの部屋</a><br /></p><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjwRigLlDtIx8OgzL6QmYt2BP7gh9pQmskZr_iZ0MB_rznc6BwADX0Rv6LJSNTP6Oj2uq3Rrq3UUsu_CM6JyXp1SlpzY_dUC2mXnSfEJmRlMDVByj-4kHS8iNtGZ5Ue_Rogo_uUCFOEu_Moa3QmQ6aXiNaZ3CFUjKsJgm5MYoXRymOwdLO6KA7EJtTWZ_9I/s3174/IMG_0671.jpeg" imageanchor="1" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="3174" data-original-width="2267" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjwRigLlDtIx8OgzL6QmYt2BP7gh9pQmskZr_iZ0MB_rznc6BwADX0Rv6LJSNTP6Oj2uq3Rrq3UUsu_CM6JyXp1SlpzY_dUC2mXnSfEJmRlMDVByj-4kHS8iNtGZ5Ue_Rogo_uUCFOEu_Moa3QmQ6aXiNaZ3CFUjKsJgm5MYoXRymOwdLO6KA7EJtTWZ_9I/s320/IMG_0671.jpeg" width="229" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">その手のひらには何が書かれているのだろう?</td></tr></tbody></table><br /><p><br /></p><p> <br /></p><p> <br /></p><p> <br /></p>てよみhttp://www.blogger.com/profile/13418012544538145754noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-4649659134241655859.post-10752208839755523382023-07-18T10:54:00.006+09:002023-07-19T06:08:01.752+09:00キレギレの我が健康線についてふたたび<健康線はその線がなければ「健康だね!」という線である。><div><br /></div><div>こんな書き出しではじまるのはちょうど7年前の今日のブログだ。私は生まれて初めての入院や手術を体験していて、その際に手のひらにある健康線の乱れについて気がついたことを綴っている。</div><div><br /></div><div>7年後の今日、再び私は入院していて、窓の外の熱でゆがんだ景色をよそに涼しい病棟内でこれを書いている。7年前のまさかのアゲイン。反省することの少ない我が人生に、力づくで振り返りをさせられているような入院生活1ヶ月。</div><div><br /></div><div>私の手のひらには、再びキレギレの健康線が出現している。7年前のブログの繰り返しになるが、健康線のざっくり説明は冒頭に続き以下になる。</div><div><br /></div><div><div><「健康線」というネーミングからするとあると良さそうな雰囲気なのに、ないことで良しとするちょっと不思議な線だ。もし線が出ていても、まっすぐ伸びていたら「ふつう」ということでとりあえずは問題ないとみる。</div><div><br /></div><div>問題になるのは線の流れがクネクネしたり島ができたりキレギレに乱れたりしたとき。そういうときは体調を崩しやすいときなので気をつけてくださいね、となる。></div></div><div><p>現在、私はこのキレギレの健康線に加え、エネルギータンクである親指の付け根もひ弱にしぼみ、手のひら全体に痩せて薄くなっている。自分てよみ史上、最も弱りきった我が手といえる。</p><p>手のひらとはこんなに正直なものなのか!と、7年前にも抱いた境地がさらに強化されて再び襲ってくる。</p><p>病気になったり、家が貧乏で憂い目にあったり、突然の不幸に見舞われたり、人生には残念ながらネガテイブな局面というのはある。そんなときに「あなたにはそんな辛いことも乗り越えられる強さがあるからカミサマがそうされたのよ、だから大丈夫!」的な文脈で励ますようなことをいう人がいるけど、本当にやめてほしいと思う。</p><p>たとえその試練がその人のその後の人生の糧となったとしても、それは結果そうなっただけのこと。目の前に辛いことが起きたからどうにか乗り越えたのであり、もしかしたら乗り越えられなかったのかもしれず、最初から、意味や、カミサマの思し召しが用意されていたわけではない。意味があるなら、それはあとから自分でみつけるものだ。</p><p>---</p><p>作業療法でいつも一緒になるご高齢のOさんは、私が退院して元のように右手が動くようになったらクッキーをつくりたいと話すと、「そういう希望のある話はとてもいいわね」とにこやかに言った。</p><p>Oさんは、動かなくなった右手の痛みを緩和するためのセラピーを受けている。私は1ヶ月かけてここで少しずつ右手が回復してるけど、Oさんの右手はもう動くことはないらしい。</p><p>Oさんによく「若い人はいいわね」と言われるのがちょっとうざったかったけど、本当に心からそう思われているのだと、やっと分かった。若いとは、希望がある、ということなのだ。</p><p>だから、若い人が希望を失ってしまったようなニュースに触れると、とても落ち込むのかもしれない。それほどむごくて不自然なことは他にはないからだ。</p><p>私も若い(といわれている)うちにもっとがんばりたいと気持ちが広がる。それと、若い人が当たり前の希望を失わないように、自分にできることが少しでもないだろうか。私がてよみをする意味があるのなら、それなのかもしれない。</p><p>とりあえずはリハビリがんばって、退院したらクッキーをつくろう。</p><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBkxh0efMNAAHHY6dZOzcvMCKTzpF6qTL3jJ5b0ZA7HZa8qjnET0f7Gcq92OZxHFBAHJ5SriLhX2yVoEhFBs-kxeCz629I4ko_gET9Dzz7riJ6NR6mv4_975qk2hGUtu_Axj7EhYg4Wv1GBbqf-PiTLuZf5agWs4ZB1W-hCBvw6zWkPqLAn_SDCQ-rTOG_/s2444/IMG_9281.jpeg" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="2444" data-original-width="1955" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBkxh0efMNAAHHY6dZOzcvMCKTzpF6qTL3jJ5b0ZA7HZa8qjnET0f7Gcq92OZxHFBAHJ5SriLhX2yVoEhFBs-kxeCz629I4ko_gET9Dzz7riJ6NR6mv4_975qk2hGUtu_Axj7EhYg4Wv1GBbqf-PiTLuZf5agWs4ZB1W-hCBvw6zWkPqLAn_SDCQ-rTOG_/s320/IMG_9281.jpeg" width="256" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">病室のベッドの上にて</td></tr></tbody></table><p>追記:今日の作業療法で、Oさんに「ワタシが退院したらアナタのクッキー買えるかしら?」と聞かれた。私の作る猫型のクッキーの名前「デジネコクッキー」もすっかり覚えられていた。Oさんを勝手に高齢者にひとくくりしていた自分が恥ずかしい。Oさんだって十分にお若く、希望みなぎっていて、私もうかうかクッキー制作を先延ばしにしてはいられない。</p><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhp2Z32XPt8V7BRxAJmDM2Kk-cSHHAmz-JlXit16cvjFQb36YKYTEfv7ItVVuLQi53Ch8sPoxVKf24cFjjIIcGEMti-zbrNjSnWfY8HTVsX7ihRERYZr7idK4jt_dioYCnpLlSPcsSKQygSs6anDjQimhugPNZO9V846Qb5PR_rk-gtlQHhHNDGk4AyKRTP/s2992/IMG_9510.jpeg" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="2992" data-original-width="2394" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhp2Z32XPt8V7BRxAJmDM2Kk-cSHHAmz-JlXit16cvjFQb36YKYTEfv7ItVVuLQi53Ch8sPoxVKf24cFjjIIcGEMti-zbrNjSnWfY8HTVsX7ihRERYZr7idK4jt_dioYCnpLlSPcsSKQygSs6anDjQimhugPNZO9V846Qb5PR_rk-gtlQHhHNDGk4AyKRTP/s320/IMG_9510.jpeg" width="256" /></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">作業療法室のステキな猫画</td></tr></tbody></table></div>てよみhttp://www.blogger.com/profile/13418012544538145754noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-4649659134241655859.post-77914465095594366442022-08-12T10:30:00.001+09:002022-08-12T11:01:18.203+09:00歳ってなんだ?<p><span style="font-family: Roboto;"> 人が誰かを若いとか若くないとか判断するとき、いったい何を見ているのだろう? 肌、しぐさ、雰囲気、ファッション。すべてが相まったその人がまとっている空気。でもそれって、すごく感覚的。判断基準も不確かで曖昧なものだ。</span></p><p><span style="font-family: Roboto;"> 手のひらにある「生命線」や「運命線」には、「流年法」という歳をよみ取る方法があって、線をある間隔に区切って年齢を算出することができる。線が途切れたり切り替わったりしたところが人生の節目となるので、「運命線が切り替わっている25歳で転職したのでは?」などとよみとることができる。手相観の達人ともなれば、こまかく1歳単位で言い当てることだって可能らしい。</span></p><p><span style="font-family: Roboto;"> でも、その歳って数字、ほんとうにあてになるのかな? と、いつも思う。</span></p><p><span style="font-family: Roboto;"> 人生の刻まれ方ってそれぞれにちがう。5年土の中にいたセミも、17年土の中にいたセミも、</span><span style="font-family: Roboto;">よちよち木にのぼって成虫となって鳴くのは、</span><span style="font-family: Roboto;">同様に初めてのオトナ体験となる。</span><span style="font-family: Roboto;">幼虫時代の長さのちがいにどれほどの意味があるのかなんて、当セミにも分かるまい。</span></p><p><span style="font-family: Roboto;"> 赤ちゃんからスタートして子どもから大人になって老人になって死ぬ。という人生の大まかな流れは同じでであっても、子ども時代がビヨーンと長い人もいれば、さっさと老生の境地に達した幼子だっているかもしれない。けして横ならびではない人の人生を、一律に歳で区切ったり、世代に分類してくくるのってすごく乱暴だ。</span></p><p><span style="font-family: Roboto;"> そんなふうに思うようになってから、私はできるだけ人の年齢を把握しないようにすることにした。相手が自分より年上か年下かも可能なかぎり知らんぷりして、自分にとってその人がどんな感触の人なのか、それだけを頼りに接している。</span></p><p><span style="font-family: Roboto;"> 先日いっしょに遊んだ友人の娘さん(さすがに年下とは認識!)が、夏休みの宿題を最初の1週間くらいで片付けたという話をしていて、私にはないその地に足ついたしっかりさんぶりに、憧れを抱かずにはいられなかった。語彙は少なくても、自分の意志をきちんと相手に伝える話し方といい、生まれてからわずか数年の人生経験で到達したとは思えない、人の懐の深さのようなものを感じた。唯一、彼女がプールで帰りたくないと駄々をこねたときだけ、私は大人になれた気がする。</span></p><p><span style="font-family: Roboto;"> 年齢把握を放棄してから感じるのは、人とのコミュニケーションがとてもラクだということ。年齢バイアス(「〇歳だから〇〇」的同調)があるところで人と接するときより疲れないし、ずっと楽しい。気の合う人も、気を使う人も、結局は歳など関係なく、自分との相性なのだという単純な原理にいきつく。</span></p><p><span style="font-family: Roboto;"> 一人の人間の中には、子どもも大人も老人も(男も女も)同時に生きていて、対する人によって自分の歳も自然と変わっているものなのだ。母親に対しては甘えた子どもの自分が、好きな人に対してはドキドキする少女の自分が、猫に対してはいっしょにのんびりしたいおじいちゃんな自分がいたりする。それだって流動的で、関わり合いの中で変化していく。</span></p><p><span style="font-family: Roboto;"> 出会う人の数だけ自分がいて、お互いにどんな年齢の顔があらわれるかは、あなたと私の偶然のつながりが決めてくれる。人の歳がいくつかだなんて、ほんとうに曖昧なものなのだ。<br /></span></p><p><span style="font-family: Roboto;"><br /><span style="font-size: small;">*ちなみに私のてよみでは年齢を伺っています。手のひらにある人生の切り替え時期と、実際の切り替えがあった年齢をこたえ合わせしながら、その方の人生のテンポをよんでいくようにしています。</span></span></p><p><span style="font-family: Roboto; font-size: x-small;"> </span></p><table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><tbody><tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhLDDQbX_fV5Kh8l-cDK4KVyYuVMoIXSIAU22s9u83QBtBz09BqDCzYB4PpnATT5NrAVMvsT1vOnGm-Sfz56hYlz6u_GTFJdIC-TdTclB_EncO3shivm7cksiU4d6JbG2hQzgW2oNKkF8jA0PAHHwPszVsAvAaGa35nUInMAGnAUXeJ7QXb_lbxjsr1Ow/s4032/1DBBDF1D-8D34-4F6E-A58E-05494CA3EE42.JPG" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><span style="font-family: Roboto;"><img border="0" data-original-height="4032" data-original-width="3024" height="400" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhLDDQbX_fV5Kh8l-cDK4KVyYuVMoIXSIAU22s9u83QBtBz09BqDCzYB4PpnATT5NrAVMvsT1vOnGm-Sfz56hYlz6u_GTFJdIC-TdTclB_EncO3shivm7cksiU4d6JbG2hQzgW2oNKkF8jA0PAHHwPszVsAvAaGa35nUInMAGnAUXeJ7QXb_lbxjsr1Ow/w300-h400/1DBBDF1D-8D34-4F6E-A58E-05494CA3EE42.JPG" width="300" /></span></a></td></tr><tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;"><span style="font-family: Roboto;">プールではしゃぐAちゃんをお父さん気分でパチリ<br /></span></td><td class="tr-caption" style="text-align: center;"><span style="font-family: Roboto;"><br /></span></td></tr></tbody></table><span style="font-family: Roboto;"><br /></span><p><br /></p>てよみhttp://www.blogger.com/profile/13418012544538145754noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-4649659134241655859.post-14127989221860021112022-01-20T16:46:00.010+09:002022-01-25T14:00:39.616+09:00フジのやつ<p> 起き抜けに窓を開けて、朝焼けのピンクに染まる遠くの富士山に向かって「おはよう」と声をかけるのが、この部屋に越して1年経つ私の日課となった。でも、くもりの朝は、白くぼんやりとした空にフジはすっかり身を潜めてしまう。そうなると、あんなに愛おしかったフジのやつが、あのビルの左にいたのか、右にいたのか分からなくなるくらい、私の愛おしさも、ずいぶんぼんやりしたものだと思い知らされる。</p><p> 誰かと会っているとき、とっておきのおかしみを共有できたりしたら、とてもうれしい。かといって、おかしみも楽しさもなくても、確実に愛おしさのようなものだけが残ることがある。私の場合、二度と会えるかも分からない、手のひらをよんだ人にそんな気持ちになったりする。</p><p> 人間関係の悩みを打ち明けてきたその人に、「深入りしなければみんないい人」という私の持論を話したことが、果たしてよかったのかは分からない。これは、端的に言ってしまうと、対人というのは付き合いが浅ければがそれほど害はないのだ、ということになる。</p><p>「深入りしない」この姿勢をしっかりキープできれば、人間関係の面倒に振り回されることはなくなるはず。向こうから深入りしてきそうな相手にだけ、周到に間合いを取るスキルはいるが、こればかりはセンスと経験だ。</p><p> 誤解がないようにいうと、表層的で心ない人付き合いを推奨しているわけではない。ただ、距離感があるからこそ保たれる友好関係は、距離を縮めて関係を維持することよりも概ね気がラクだし、軽快な楽しさもある。それに、相手のことをよく知らないからこそ、やさしくできたりもする。</p><p> 浅い付き合いに必要なのは、やさしさ。やさしさとは、想像力でしかない。 <br /></p><p> 小さい子どもがいるあなたは、その子がいなかった頃の、自分のためだけに流れていた静かで孤独な時間を思い出してみる。子どもなんて無縁な暮らしをしているそこの私は、我が子が「お腹すいたーっ」と時を選ばず膝もとに飛びついてくる生活を妄想してみる。そんな子どもを見て笑っている、駅前でビッグイッシューを売る歯のないおじさんの、歯のない理由だって考えてみる。かつてはそんな子の父親だったのかもしれない。</p><p> いまの自分とはまるでちがう人の境遇を想像してみると、そんな経験がなくたって、自分が拡張されていく。新しい本を読むのと一緒だ。深入りをしなくても、想像しあう余力があれば、人は人を愛おしく思っていられる。</p><p> 毎朝あいさつするフジのやつのことだって、私は大して知りはしない。次、いつ噴火するつもりなのか。そんなマグマをはらんでいることは薄々知ってはいるが、フジへの「おはよう」はかかさず、私の日々に小さな平和をもたらしている。 </p><p> 少しの愛おしさがあればいい。それより深入りするかも、いつ噴火するかも、すべては自然のなりゆきで。</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/a/AVvXsEjRfh2ajbO6UAxApOFs1DrsBW02q_XsxUEZkpoq1Bqkj7on0ewmGghhyEJS3Gjj6NhAvRDvIj9hdSbwWr977UOIqM_4qMzrTVQjmP01OvFE99Ql7hZSh6vsWT6Nyy3uMI-YuACoYLBxAimpSoc_Sc64bujjL5nvNB0-wrgz9votwLqZkqoxEwH64Bquvw=s2646" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="2646" data-original-width="2646" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/a/AVvXsEjRfh2ajbO6UAxApOFs1DrsBW02q_XsxUEZkpoq1Bqkj7on0ewmGghhyEJS3Gjj6NhAvRDvIj9hdSbwWr977UOIqM_4qMzrTVQjmP01OvFE99Ql7hZSh6vsWT6Nyy3uMI-YuACoYLBxAimpSoc_Sc64bujjL5nvNB0-wrgz9votwLqZkqoxEwH64Bquvw=w320-h320" width="320" /></a></div><br /> <p></p>てよみhttp://www.blogger.com/profile/13418012544538145754noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-4649659134241655859.post-16721207033118687592021-06-25T13:47:00.016+09:002021-06-27T01:09:51.089+09:00地球にやさしく?<p><span style="font-family: inherit;"><span class="s3" style="-webkit-text-size-adjust: auto;"> 年に一度、検診で大きな病院を訪れる。</span><span class="s2" style="-webkit-text-size-adjust: auto;">5</span><span class="s3" style="-webkit-text-size-adjust: auto;">年前にちょっと珍しい脊髄の手術をして、いまは嘘みたいに元気だが、検診だけは毎年来なくてはいけないらしい。</span></span></p><p><span style="font-family: inherit;"> </span><span style="font-family: inherit;"><span style="font-family: inherit;">清潔で明るい病院のロビーに並列し</span></span>た椅子<span style="font-family: inherit;"><span style="font-family: inherit;">には、その静かな空間にそぐわない実に多くの</span></span><span style="font-family: inherit;"><span style="font-family: inherit;">人たちが</span>座っている。受付の人に待ち時間が長いと絡むおじさん以外は誰しも無表情で、いつか自分の番号が浮かび上がるはずの診察室横のモニターを眺めるとなしに眺めている。</span></p><p><span style="font-family: inherit;"> 痛みや不調を抱えた人たちがこれだけいて、それをよくしてくれることを望んでみんな</span><span style="font-family: inherit;"><span style="font-family: inherit;">ここに</span>集っているのだ。見知らぬ人たちのあいだに妙な連帯感が漂う。</span></p><p><span style="font-family: inherit;">「あなたも何か大変なんだね」</span></p><p><span style="font-family: inherit;"> そう思うと、受付の人に絡んでキレて帰ったかと思ったら戻ってきたおじさんに対しても、心なしかやさしい気持ちになれる。</span></p><p><span style="font-family: inherit;"> 人はままならない生き物だ。生きている限り生きようとする。いつか死ぬと分かっていても、大体の人はいま生きることを最優先する。</span></p><p><span style="font-family: inherit;"> そして、目の前に生きている人が、ずっと生きていてほしいと切に願う。</span></p><p><span style="font-family: inherit;"> この人間らしい、理屈ではとらえられない心もようはどこからくるのだろう? 猫にもそんな感慨はあるのか?</span></p><p><span style="font-family: inherit;"><br /></span></p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhKCrozcN4y9e_Tqm0A0pfza8ShIueUiDjx07wqexRvogu5ecy1ZhJowwcqA8S811s3xC8qyXlVkFdOZhVUM4LjM8djO-c_RyHhyOvV0AU6y0ryQUJW2KGGmS00YFJY4uYAAxpmbHmkILO4/s1893/794D9F11-AF93-44F5-95B6-1D96487658C8.jpeg" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1893" data-original-width="1893" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhKCrozcN4y9e_Tqm0A0pfza8ShIueUiDjx07wqexRvogu5ecy1ZhJowwcqA8S811s3xC8qyXlVkFdOZhVUM4LjM8djO-c_RyHhyOvV0AU6y0ryQUJW2KGGmS00YFJY4uYAAxpmbHmkILO4/s320/794D9F11-AF93-44F5-95B6-1D96487658C8.jpeg" /></a></div><br /><span style="font-family: inherit;"><br /></span><p></p><p><span style="font-family: inherit;"> 最近よく聞く「地球にやさしく」というフレーズが苦手だ。一体どの立場から言ってるんだろう?と首をかしげたくなる。</span></p><p><span style="font-family: inherit;"><span class="s3"> 本当に地球環境を守りたいなら、極論をいうと、人類がいなくなった方がいい。生物が滅びることだって自然のことわりなのだから、別に嘆くことではない。</span></span></p><p><span style="font-family: inherit;"><span class="s3">「地球にやさしく」しなくてはと言ってるのは、この先も地球に生息したい人間側の都合である。</span><span>だったら地球にはもっと謙虚な言い方をするべきではないか、と思う。</span></span></p><p><span style="font-family: inherit;">「いままで本当に申し訳ありませんでした。以後、態度を改めるので、もう少しここ(地球)に住まわせてくれませんか?」</span></p><p><span style="font-family: inherit;"> まるで不倫あとの懺悔だ。</span></p><p><span style="font-family: inherit;"> そんな地球への弁明をぼんやり考えている私は、人類が滅びるまではできるだけ健康に生きていくため、モニターに自分の番号が表示されるのをひたすら待っているのである。</span></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><br /></div>てよみhttp://www.blogger.com/profile/13418012544538145754noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-4649659134241655859.post-14749643413475507352021-04-27T00:00:00.018+09:002022-01-25T14:11:49.601+09:00内臓レジャー<p> 約束ごとがないかぎり、私はふだん目覚まし時計を使わず適当な時間に起きている。そうやって体内時計任せに過ごしていると、自分の一日が24時間区切りでないことは明白だ。一食分のスープが食べきれず3口分くらい次の日に持ち越すような感じで、起床時間は朝から昼に、就寝時間は深夜から早朝にスライドしていく。</p><p> 体内時計には、太陽の「昼夜リズム」の24時間以外に、潮の満ち引きの「潮汐リズム」の24.8時間も深く影響してるそうなので、私は海辺のリズムの方が強いのかもしれない。およそ2週間で昼夜逆転する計算だ。</p><p> そんなふだんの時間のズレのつじつまを合わせるかのように(結局合わないけど)、年に2度ほど春と秋に20時間を超える長時間睡眠をしてしまう。これも一年のなかにみられる私独自のリズムだ。</p><p> ところで、私たちのカラダのなかにある胃袋も太陽系の一員だという。一年という周期をとっても、人によってさまざまな「年リズム」があり、胃袋もまた大きく眠ったり起きたりしていて、大きな宇宙的な要素「太陽系」の天体相互の運行法則にしたがって動いている、らしい。</p><p> 思わず頭のなかで「水金地火木土天海冥」のどこかのあいだに「胃」を浮かべた天体を描いてみる。</p><p></p><div style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhuRHaJDucMMyi2ho94aAsii5XTFRHhz_hd9FLTQFNUYlUxVgOiJji1pfV7qrLurYBI_ouhIQ2OJsKZUQj7p1QafBDrzhX_tr02GxA3BAYqPQ-3qmfyRiAI1Hc-LPs6fbl8MLocQqohyphenhyphenLZF/s2048/taiyoukei.jpg"><img border="0" data-original-height="1473" data-original-width="2048" height="294" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhuRHaJDucMMyi2ho94aAsii5XTFRHhz_hd9FLTQFNUYlUxVgOiJji1pfV7qrLurYBI_ouhIQ2OJsKZUQj7p1QafBDrzhX_tr02GxA3BAYqPQ-3qmfyRiAI1Hc-LPs6fbl8MLocQqohyphenhyphenLZF/w400-h294/taiyoukei.jpg" width="400" /></a></div><p><br /> そう教えてくれた解剖学者の三木成夫・著『内臓とこころ』(河出文庫)を読んでから、私は一日三食食べるのを完全にやめた。</p><p> 子どもの頃から燃費がよくお腹が空きづらい体質で、人とごはんを食べる約束があるときは前の日からあまり食べないように調整しなければいけなかった。私の母も同じ感じなので遺伝なのかもしれない。そのくせ食べることが大好きで、つまらないものを食べて腹を満たすことを憎み、食い意地ばかり鍛えてきた。</p><p> 一日三食食べなくていいと自分を許すと、こんなにラクなことはなかった。毎日きちんと食べなくてはいけないという義務感からの解放、ほんとうに食べたいときに食べたいものだけを食べる胃袋本位に生きる自由。胃袋から太陽系につながっているんだと妄想し、自分のなかの宇宙感覚(=食い意地!)にとことん耳をかたむけ食事をすることは理にかなっているようにも思えた。結果、一日一食くらいが自分にとってちょうどよいリズムなのだとも分かった。</p><p>「“食欲”という、ひとつの内臓感覚をとっても遠い宇宙の彼方との共振によって、支えられている」(前著より)</p><p> 食欲も睡眠欲も意識ではコントロールできない。コントロールできないこととは、学校に行く、会社に行く、仕事をするなど、常に他者との約束を抱えている社会性ある人間にとっては厄介な対象だ。</p><p> こちらは悠長に遠い宇宙の彼方と共振している場合ではない。ちまちまと頭で管理した行動をしなくては一日が成り立たない。時間を決めてごはんを食べたり寝たりするのは、潤滑に社会生活を送るためでもある。</p><p> たまの休暇に山や海、遊園地など自分圏外へ出かけて楽しいのは、いつものそんな管理から解放されるからなのだろう。頭がコントロールできないことに身を委ねることで、心の方はラクになるのだから不思議だ。</p><p> 今年も残念ながらGWはどこにも行けなさそうなので、家のなかで自分の感覚だけを頼りにでたらめに生きてみるのも面白いかもしれない。</p><p> 食べたいものしか食べない。寝たいだけ寝る。スマホはオフにし、家中の時計とまとめてスーツケースにでもしまいこもう。徹底して自分の体内時計だけで過ごしてみる。頭のなかの「常識」や「普通」にもフタをして、社会性をとことん削いだ存在を目指す。</p><p> これは家のなかでできるレジャーとしてはかなりスリリングだ。カラダにいいかは分からないし、誰かに怒られそうだけど、心はやわやわにほぐれそう。ついでに自分の本来のリズムがみつかったらめっけもんだ。内臓感覚にのっかって、宇宙トリップだってできるかもしれない。</p><p> GW明けにちゃんと戻って来られるかは分からないけど。</p>てよみhttp://www.blogger.com/profile/13418012544538145754noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-4649659134241655859.post-22884526942840814432021-04-07T16:58:00.023+09:002021-04-08T21:25:53.463+09:00おばあちゃんを産まない<p> あるところに、その人が使っているハンコをみるだけでその人の運命が分かるという不思議なハンコ屋のおじいさんがいて、私の母はずいぶん前にそこでハンコを作ってもらった。当時、母は離婚する前だったが、旧姓で作って欲しいと頼んで、ついでに私と兄のハンコも母の旧姓で作ってもらった。</p><p> ハンコは認印と銀行印と実印の3点セットだったが、私だけ「この子はお嫁に行くから」という理由で銀行印は作ってもらえなかった。私の分の銀行印の返金として受け取った5千円札は、いまもそのまま他の2本のハンコと一緒に保管してある。<br /></p><p> その後まもなく父と母は離婚し、すでに成人していた私と兄はそうする義務はなかったが、ハンコのとおりに母の姓に名前を変えた。</p><p> それから10年以上経ち、母の姓は私の名前としてすっかり定着した。ときどき子どもの頃の持ち物にかつての名字で自分の名前が書かれてあるのをみつけると、不思議な気持ちになるくらいだ。ただ、あのハンコのことで、古いセーターのほつれのようなどうでもいい引っ掛かりがずっと心に残っていた。</p><p> ある日の夕方ふと思い立ち、私はあのハンコ屋に電話をかけてみた。</p><p>「ずいぶん前にそちらでハンコを作っていただいたのですが、銀行印だけ「嫁に行くから」という理由で作ってもらえなかったんです。それで、どうも嫁にいくこともなさそうなので、改めて作ってもらえないかと思いまして、、、」</p><p> 電話口のおじいさんは耳が遠いのか「はあ」と大きな声で合いの手をいれながら何度も聞き返してきたが、大体のこちらの要望は把握してくれたようだ。その上で、</p><p>「がんばってお金持ちにホレたふりして子どもを作れ」</p><p> と、突拍子もないことを言ってきた。 あれ、おじいさんボケちゃってるのかなあ?と思いきや、私の性格や状況をぽんぽん当ててくるから怖い。</p><p>「あんたは人間性がすぎる。神様や仏様と一緒。いつも人類愛でしょう。人間性と金持ちは両立しない。だからがんばって金持ちと結婚して子どもを作りなさい」</p><p> そんなふうに言われて一体どんな気持ちになっていいのかさっぱり分からなかったが、「人類愛」というのだけは、いい言い訳を授かったような気がした。私が恋愛や結婚にあまり興味が持てないのが「人類愛」のせいだとしたらなかなか悪くない。</p><p>「そこまでして結婚して子どもを産まなければいけないのですか?」</p><p> とたずねると、「むおんっ」と咳のようなものをして「あんたの子どもがおばあちゃんの生まれ変わりなんだよ」とおじいさんは言い放った。</p><p> 私は、本来父方の人間で、父の母親であるおばあちゃんが私の子どもとして生まれてくる予定だというのだ。それから話が私の父のことに及んだとたん電話はプツリと切れて、何度かけ直しても二度とおじいさんは出なかった。</p><p> そんなことがあってからしばらくして、私は一人で祖母のお墓参りに行った。</p><p> 祖母は戦後すぐに夫を亡くし、一人で4人の子どもを育て、晩年は保険の外交員をしながら一人暮らしをしていた。フェルト地の細いツバのある帽子をいつもかぶっていて「おばあちゃんは大正時代のモガってやつなんだな」と子ども心に思っていた。</p><p> ときどき仕事帰りにふらっと我が家に現れて、「鉛筆代ね」と小遣いを200円くれて、とくに面白い話をするわけでもなく夕飯を一緒に食べて帰っていった。祖母の右手の中指と薬指は、戦時中の勤労奉仕先で事故にあったとかで麻痺して動かなかったが、いつも動かない指で器用に箸を支えてごはんを食べていた。それから私が高校生のときに、病院で母に看取られて亡くなった。</p><p> ぼうぼうに生い茂っていた墓周辺の雑草を抜き、雑草の中にあった小さな黄色い花を束ねて「おばあちゃん、ワイルドフラワーだよー」と墓石の前に生けて、線香がわりに家から持ってきたネロリのお香を焚き、コンビニで買った80円の豆大福を一口齧ってから半分に割って「おじいちゃんと分けてね」と言ってそなえた。我ながら適当すぎるが、改まると来づらくなりそうなのでいつもこんな感じだ。</p><p> それでも、両手を合わせて「東京から引っ越そうと思うんだ。仕事もこれからどうなることやら分からないけど、おばあちゃんみたいに死ぬまで働いて生きていくよ」と口にしたら泣きそうになったのは何故だろう。</p><p> 祖母がどんな気持ちで働いて、どんな気持ちでたまに我が家に寄ったのか、私には分からない。ただ、祖母が一人で暮らして働いて生きていたという事実が、いまの自分にぐっと接近してくる。生きていたときよりずっと祖母に親しみが湧くのは、生きてる方の勝手すぎだろうか。</p><p> すぐそこの木の上で、豆大福にありつくのを待ちわびたカラスがひと声鳴く。</p><p> おばあちゃんも大変なこといっぱいあったんだろうね。いまはこっちはコロナで大変だよ。あ、でも戦争よりはマシか。私も適当に頑張るよ。別に見守ってくれなくていいから。それと、悪いけど子どもは産まないよ。おばあちゃんがこの時代にわざわざ生まれ変わってくるというのも、あんまりおすすめできないし。そっちでのんびりしてた方がいいよ。</p><p> じゃあね、おばあちゃん。またね。</p><p> それから何度かあのハンコ屋に電話をしているが、まるで繋がらないでいる。ハンコ屋のことを取材したことのある知人の編集者にきいたところ、逆に夕方にセンセイ本人が電話に出たことの方が奇跡だという。</p><p> 結局、私の銀行印は作ってもらえないままだ。 </p><p> </p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEidUPA-JErLVYpjMAUm8ksc5r_lngUZd2Uu3jpahQcLb52ZFuageEQ-t5okpUJ1VLB4UxvX3ewjKhpBq06u7UtBZk4siDHwDKoi7bTx78GcRZvwsqt2wsYWjyWTBwv8xnRGSFNf6oDz0Ztb/s2048/shareImage_1617728430.jpg" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="2048" data-original-width="2048" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEidUPA-JErLVYpjMAUm8ksc5r_lngUZd2Uu3jpahQcLb52ZFuageEQ-t5okpUJ1VLB4UxvX3ewjKhpBq06u7UtBZk4siDHwDKoi7bTx78GcRZvwsqt2wsYWjyWTBwv8xnRGSFNf6oDz0Ztb/s320/shareImage_1617728430.jpg" /></a></div><br /><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p>てよみhttp://www.blogger.com/profile/13418012544538145754noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-4649659134241655859.post-43554613883863366102020-11-28T00:30:00.018+09:002020-11-28T22:06:16.268+09:00結婚(線)について<p> 結婚という制度にこだわらず、ゆるめな家族をつくる人たちの話を最近ちょこちょこと聞く。一人一人は自立していてお互いふだんは深入りしないが、困ったときには助け合う。気兼ねのない友人とあえて家族になるような感じだろうか。個人どうしの結び付きで籍も入れないので結婚ではないのだけど、何がちがうんだろう?<br /></p><p>「結婚」ってなんなんだ? と改めて考える。</p> 手相には「結婚線」という名の線がある。小指の付け根の側面下に横切る線で、この線の位置や数で結婚する年齢や回数、相手のタイプなどをよみとる。ただ、結婚線は「結婚」といいながらももう少し広い意味での「縁」をよむ線なので、そのまま結婚を意味するとも限らない。となると、この「縁」ってどこまで含んでいるのだろう?<p> 同性・異性にかかわらず気の合う人との「縁」もあるし、恋愛感情や性的欲求のないパートナーと結ばれる「縁」もある<span style="font-size: xx-small;">(いま「え?」と思われた方は、能町みね子著『結婚の奴』やアルテイシア</span><span style="font-size: xx-small;">著</span><span style="font-size: xx-small;"><span class="css-901oao css-16my406 r-1tl8opc r-ad9z0x r-bcqeeo r-qvutc0">『離婚しそうな私が結婚を続けている29の理由』</span>などを読んでみてください)</span>。愛し愛されるということで言えば、愛犬や愛猫との「縁」だって手に刻まれるかもしれない。</p><p>「縁」のカタチも色々で、そもそも特定の相手と結婚する、パートナーになるということ自体が必ずしもすべての人に向いているわけでもない。</p><p> 手のひらをよんでいて、特定の相手がいない状況の人に「結婚はどうですか?」ときかれるとき、私の思考は下記のようにめぐる。</p><p>①結婚したいと思っているのは環境(周囲からの影響や圧力)のせいなのか? 本人の意思なのか?</p><p>②環境だとしたらその環境に逆らった方がいいのか? 従った方がいいのか?</p><p>③本人の意思だとしたらその根源はどこから来ているのか? さみしさ? 憧れ? プライド? 子どもがほしい?……</p><p>④そもそも本当にこの人は結婚という生き方に向いているのだろうか?</p><p> その人の心が求める方向をうんうんと辿っていって結局④の問いにぶちあたり、「あなたは結婚にこだわらない方がいいかも」とお伝えすることもまあまあある。</p><p> 昭和初期に書かれた手相の指南書なんかには「この相が女性にあると強すぎてよくない」とか、「妻にこの線があるとかかあ天下になる」など、女性蔑視的な解説がしれっと書かれていたりするが、だいたいが「自立心が強く自由でいたい人」といった意味合いだったりする。「女は男を支えるもの」という前提あっての解説にマジ辟易するが、ともかく、女でも男でもこういう手の人は、一人でのびのびと暮らした方が楽しいのではないか、と思う。</p><p> もちろん結婚に向いている人もいる。依頼心が強い人は一人だと心細いので常に誰かと一緒にいたいと思うし、逆に人に頼られることで自分が活性化する人もいる。自分のことだとサボってしまう人も、家族や人のためだと頑張れたりとか。もともと結婚を望んでいなくても「縁」のある人と出会うことで自然と家族をつくる選択をする人もいるだろう。</p><p> チーム競技と個人プレイ、どちらが得意であってもそこに優劣はない。それに、味方がいる心強さがいつしか煩わしさになることもあるし、自由に我が道をいくことに孤独を感じて足がすくむこともある。またそれぞれ逆もしかり。良いも悪いも表裏一体にしかありえないのだから、どちらにしても、自分の行った道を自分で「いいね!」(がむずかしくても「悪くないね!」)とできるように開拓していくしかない。</p><p> バリバリに昭和を生きてきた母にきくと、昔は結婚が向いているかいないかなんて考えるまでもなく、「そういうものだから」という世の風潮で結婚するのが当たり前だったという。深く考えず、若いうちに手を打ってしまうのも、産めよ増やせよの時代には得策だったのかもしれない。</p><p> でもいまもうそれムリじゃね? と思います。</p><p> ジェンダーのことを一つとってもスタンダードなんてないということを私たちはもう知っている。すべての人間が幸せの指針とする「そういうもの」なんてありえないのだ。人の数だけ生活のスタイルがあっていいし、制度や型や風潮にハマらない分かりづらい生き方を恐れる必要もない。それぞれ自分なりのやり方で「縁」を築いていけばいい。</p><p> そろそろ「結婚線」の呼び方を変えるときなのかも。</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi6A_KgAhLI74tSOYGWrTv9wH5kKYJIdT4_4b5v-aSdlHTh1Y08eC2CgYL40J41TikBEjnyTGlOljb-Ehgq0hRCSSnGskN0kqDdXKs-bhUmzjPtmTYeom66WZJQ5X89lj0bUhcUuOIQ8gtg/s1827/IMG_7185.JPG" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1827" data-original-width="1827" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEi6A_KgAhLI74tSOYGWrTv9wH5kKYJIdT4_4b5v-aSdlHTh1Y08eC2CgYL40J41TikBEjnyTGlOljb-Ehgq0hRCSSnGskN0kqDdXKs-bhUmzjPtmTYeom66WZJQ5X89lj0bUhcUuOIQ8gtg/s320/IMG_7185.JPG" /></a></div><br /> <p></p>てよみhttp://www.blogger.com/profile/13418012544538145754noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-4649659134241655859.post-69836978665748896242020-09-13T02:46:00.023+09:002020-09-13T14:25:01.395+09:00インドでてよみ採集<p> 日本人とフランス人とインド人がいたら、言われなくても誰がどこの国の人かは見当がつくだろう。身体の構造は同じでも、髪や目や肌の色、骨格の感じ、ざっくりした雰囲気までも少しずつ違う。私たちはそんな違いを一瞬で感知したりするけれど、その違いってどこからくるのかよくよく考えると不思議だ。「国」なんて人間が勝手につくった枠組みでしかないのに。</p><p> 個人のあり方に生まれ育った環境はどのくらい影響しているものなのだろう? お国が変われば手相の感じも変わるものなのか? そんなことをぼんやり考えながら、2019年の年末にインドを訪れた。北のデリーからジャイプール、南のチェンナイと巡る旅中で、「手のひらの写真を撮らせて!」と現地の人たちに身振り手振りでお願いをし、たくさんの手のひらを採集することができた(インドのみなさんありがとうございます!)。 <br /></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhNiYxYkuxTP6dTJmlWqmF-pxQloOUx5n59aA6BtDYR5b9EvSwMpOHhjFFvJEGiBplErGSxjaSC2sr__OMiIEm7Fs1AoZ0Nwg5BZ45KSCJWF8Yg0yxJiDeCDBCP3GpnsB_xG_CxGzpl_EbG/s1440/11457AC5-A0D8-44DB-8372-314A8FDCD086.JPG" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1440" data-original-width="1440" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhNiYxYkuxTP6dTJmlWqmF-pxQloOUx5n59aA6BtDYR5b9EvSwMpOHhjFFvJEGiBplErGSxjaSC2sr__OMiIEm7Fs1AoZ0Nwg5BZ45KSCJWF8Yg0yxJiDeCDBCP3GpnsB_xG_CxGzpl_EbG/s320/11457AC5-A0D8-44DB-8372-314A8FDCD086.JPG" /></a><span style="font-size: xx-small;"><br />デリーの女の子たち。はにかみながらも手のひらを見せてくれた。</span></div><p> インド人の手でいちばん印象的だったのは、手のひらに流れる線の濃さだ。<span title="編集済み">アーユルヴェーダコスメショップのお姉さん</span>も、青いシャツを着た学生たちも、アンベール城の警官も、交差点で車の窓をノックしてくる物乞いの女の人も、とにかくみんな線が濃い。日本人の線がHBの鉛筆ですすーっと描いたのものだとすれば、インド人の線は彫刻刀で彫ったよう。もちろん日本人にだって濃い人はいるけど、彫刻刀レベルはそうそういない。</p><p> 線の濃さは生きるエネルギーの強さ。しっかり握られている赤ちゃんの手には、くっきりとした線が刻まれている。そんな無垢な生命の塊から人生がスタートして、大人になるにつれて悩んだり迷ったりして線がもやっと薄くなったり、中年も過ぎると生きようを刻んでまた濃くなったり、老年を迎えれば肝が据わるのかぐっと彫り深くなったりと、世代による濃淡があるように日本では感じていたが、インドではそうでもないのか? 赤ちゃんからお年寄りまでみんなみんな濃い人ばかり。全世代全力模様である。</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEipiA8D7Mxx8IMB24uNMffhgGI8yEzPUwpVvinXiLwgbFsv2ouy8969p6T-T-7W09-VnZ14o8EN_BQ9MzAdxcBJKbE7pQ7etrbMhg3M-uCR-s3o_hDgQWywQT6y40R4RIqZPkh0Q0gK1mbO/s1440/936136F7-67A6-4483-B8C6-610763676490.JPG" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1440" data-original-width="1440" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEipiA8D7Mxx8IMB24uNMffhgGI8yEzPUwpVvinXiLwgbFsv2ouy8969p6T-T-7W09-VnZ14o8EN_BQ9MzAdxcBJKbE7pQ7etrbMhg3M-uCR-s3o_hDgQWywQT6y40R4RIqZPkh0Q0gK1mbO/s320/936136F7-67A6-4483-B8C6-610763676490.JPG" /></a><br /></div><div style="text-align: center;"><span style="font-size: xx-small;"> こちらは自撮り大好きな男の子たち。手の線も眼差しも濃すぎ</span><span style="font-size: xx-small;">!<br /></span></div><p></p><p> もうひとつ、インド人で多く見られたのが、広くて厚みのある金星丘(親指の付け根のふくらみ)だ。手のひらのホームにあたるここが発達している人は、肉親や故郷などの家縁が強いといわれる。</p><p> ジャイプールで見せてもらったブロックプリントの職人たちの手もそうだった。深い生命線に取り囲まれたたくましい金星丘は、代々ずっと1つのことに打ち込んできた人の頑なさを語っているよう。繊細な絵柄が彫られた木のブロックを均等に繰り返し捺すことで、布一面に鮮やかな文様をつくりだす。その高度で綿密な技術が蓄積した手には、磨かれた古木のような艶があって、惚れぼれとする。</p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhiioR2WS59X0ok6gbPvkoUTbIqblz4Griiri92N1UZbV0Hfo43_hXt7LnpOJEccciYwa4ZE79HdB99S0KDXJ5GpZKyvTFIjRZxsZC_rxVQNVgwoZwyUAkBz0y9ZDPbrqStleX64s4Srd4y/s1440/B66A1D9B-D900-4E75-8454-A4A702963D70.JPG" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1440" data-original-width="1440" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhiioR2WS59X0ok6gbPvkoUTbIqblz4Griiri92N1UZbV0Hfo43_hXt7LnpOJEccciYwa4ZE79HdB99S0KDXJ5GpZKyvTFIjRZxsZC_rxVQNVgwoZwyUAkBz0y9ZDPbrqStleX64s4Srd4y/s320/B66A1D9B-D900-4E75-8454-A4A702963D70.JPG" /></a></div><span style="font-size: xx-small;">彫刻職人の手。張り出した生命線に囲まれた広くがっしりした金星丘。</span></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><span style="font-size: xx-small;"> </span><br /><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhy3rgCJFKP_012fG-rASCwYnlAI4KHdjeqB9E6VbkB8If_gg1_kofOzKoT3q6lAFIMomgFbDLfIyfeULdFJPSa_Czuf_pH10uauh_uAHHGMEETsXMYRYRNz-seGVIVD42GofUgtXSjZ-vl/s1440/61D3B252-D756-4DFD-A4FE-EF6778C1AFF9.JPG" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1440" data-original-width="1440" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhy3rgCJFKP_012fG-rASCwYnlAI4KHdjeqB9E6VbkB8If_gg1_kofOzKoT3q6lAFIMomgFbDLfIyfeULdFJPSa_Czuf_pH10uauh_uAHHGMEETsXMYRYRNz-seGVIVD42GofUgtXSjZ-vl/s320/61D3B252-D756-4DFD-A4FE-EF6778C1AFF9.JPG" /></a></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><span style="font-size: xx-small;">捺染職人の手。甲羅のように硬くなっているマメをドヤ顔でみせてくれた。</span> <br /></div><p> インドではいまだにカースト別のお見合い結婚が多いそうだけど、男の人たちの結婚線がみんな1本だったのも興味深い。職人のおじさんたちも、レストランの老支配人も、生地問屋のお兄さんも、通りすがりのイカつい観光客も、みんな揃ってくっきり1本(ちなみに女性はみんな複数本あった)。日本で1本くっきりという人はそこまで多くはない。結婚観の違いがやっぱり出てるのか? でもなんで男の人だけ?</p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgJeXm2wbmYMaFU8zWck2Eogs4Nx0Kf5geJc_x_jyKxskJUIG1-Rj7A6Ve7uRnRGYVaKDfQl9DI8oN4DIBjFzrsHpI36ethty1hyphenhyphenZKs4-SqZxQ1Eh5R8ndrVtzZBUkCIO_fnocGfjmbbgAF/s1440/3E80BC76-C0FC-4A12-868B-B413E6AEE6E0.JPG" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1440" data-original-width="1440" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgJeXm2wbmYMaFU8zWck2Eogs4Nx0Kf5geJc_x_jyKxskJUIG1-Rj7A6Ve7uRnRGYVaKDfQl9DI8oN4DIBjFzrsHpI36ethty1hyphenhyphenZKs4-SqZxQ1Eh5R8ndrVtzZBUkCIO_fnocGfjmbbgAF/s320/3E80BC76-C0FC-4A12-868B-B413E6AEE6E0.JPG" /></a><span style="font-size: xx-small;"><span style="font-size: xx-small;"><br /></span>結婚線が見事にくっきり1本の職人の手。</span></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><span style="font-size: xx-small;"> </span> <br /><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhFgncHsKY7jM_Mo2p7h2BdnEhR4JyfEcuLTCo3G-CRqwmmLnP1__kZtY-cNdmqwF9wXIP6-QfGEGOwA-0TUXyeqchD8kvmhxEGYhdIf5j0jbMVqg5EWH2MUrWBOoAx_QDiW2_1GABSbiqt/s1200/teyomi02.jpg" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1200" data-original-width="1200" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhFgncHsKY7jM_Mo2p7h2BdnEhR4JyfEcuLTCo3G-CRqwmmLnP1__kZtY-cNdmqwF9wXIP6-QfGEGOwA-0TUXyeqchD8kvmhxEGYhdIf5j0jbMVqg5EWH2MUrWBOoAx_QDiW2_1GABSbiqt/s320/teyomi02.jpg" /></a></div></div><div style="text-align: center;"><span style="font-size: xx-small;">こちらも1本!ちなみに刺青は奥さんの名前だとか。</span><br /></div> <p></p><p> この旅で私が見ることができた手のひらは、インド全人口13億人(!)中のたった数人だけだし、これでインド人のことを総括して分かったように語ることはとてもできない。ただ、この数人だけでもこんなに似ているところがあって、日本人の傾向とぜんぜん違うのは明らかだ。インドでも日本でも、きっとどこの国でも、その国らしい手のひら、パーソナリティというものがあるのだと改めて思う。</p><p> 誰もがたまたま生まれついた国のなんやかんやを我が身に落とし込み、抗い、生きていくなかで、どこまでが環境や育ちの影響で、どこからは本人の意思からできた「自分らしさ」なのかを判別つけることは難しい。占いは、それらを宿命とか運命とかいって解き明かそうとするけれど。 <br /></p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEijkUbXaGjmZ9V2AeY0BYwUg4scbo_hSPCKsd_daNWFkZ8Ei-CB29C6ajvAmgGXKwC3sYQqIbHqbuG5bn1YYyd5NsxXOZE6J04SaB-QTuW5VZdGXcNp6wwcODMGQSJfP1BTNOeODP3rjzYR/s1200/teyomi04.jpg" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1200" data-original-width="1200" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEijkUbXaGjmZ9V2AeY0BYwUg4scbo_hSPCKsd_daNWFkZ8Ei-CB29C6ajvAmgGXKwC3sYQqIbHqbuG5bn1YYyd5NsxXOZE6J04SaB-QTuW5VZdGXcNp6wwcODMGQSJfP1BTNOeODP3rjzYR/s320/teyomi04.jpg" /></a></div><div style="text-align: center;"><span style="font-size: xx-small;"> 犬もところ変われば生き方が変わるらしい。</span></div><p> 「自分が何を一番大切にするかが、その人の自分らしさになる」と、ある作家が言っていたのを思い出す。これは単位をかえて、国でも会社でも家庭でもいえることだろう。</p><p> 同じ社会で一緒に暮らすことで否応でも大切な事柄を共有し、共同体としての「らしさ」が育まれ、個人の「自分らしさ」に取り込まれていく。逆に、一人の人間の「大切なこと」が感染していって、共同体の「らしさ」に影響することもある。「自分らしさ」も相互作用でできているとなると、完全に切り離された「個」なんてありえない。好むと好まざるとにかかわらず、私たちはみんな隣人とつながっている。</p><p></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhgNCkzVXeM2gqswyvU1fXP7ZLfZZhX3i53PgVqVB_3Uzc_zNalitjSDJUXUfSIJqTqSZ75g0T0T1s_Ae4VJyKdIjHHZagFUZR6Zk4v_6X7JeRp2f_60FcTBtvTDxGncPJdcdlZbzBwJDig/s1200/teyomi07.jpg" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1200" data-original-width="1200" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhgNCkzVXeM2gqswyvU1fXP7ZLfZZhX3i53PgVqVB_3Uzc_zNalitjSDJUXUfSIJqTqSZ75g0T0T1s_Ae4VJyKdIjHHZagFUZR6Zk4v_6X7JeRp2f_60FcTBtvTDxGncPJdcdlZbzBwJDig/s320/teyomi07.jpg" /></a><br /> <span style="font-size: xx-small;"><span title="編集済み"><span style="font-size: xx-small;"><span title="編集済み">牛も犬もつながっていた。</span></span></span></span></div><p></p><p> 街中は<span>朝から晩までクラクションが鳴り止まず、</span>車道は<span><span>全員あおり運転状態</span>。</span>迷って道を尋ねれば知らなくても教えてくれるし、通りを歩けばあれもこれもと売りつけてくる人、人、人。道端では犬が寝転び、猫は鋭い目線を向け、牛はウンコを垂れ流す。そんな混沌とした息遣いのなかに、<span>定規を使って商品の箱を寸分狂わず陳列する静謐さや</span>、凛とした紅茶の味わいや、ハンドメイドの絵本の息をのむ美しさや、大きな送り荷を白い布で包んで瞬く間に縫い上げてしまう緻密さなんかが、矛盾するしない関係なく平然と同居している。</p><p> 空気の読みようなんてなく、いればいるほど謎めいていて、ちっともうかうかしていられない。そんなインドに腰を据えてみたら、ぼんやりとした日本人の手のひらの線も、にわかに濃くなるのかもしれない。</p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhJ0RCfEy6XrWD1MxzdsusLiMV5gPkUDu8ETJHu3L14lcPTsNwhgNUrQdlw1jhUTUDZaRDJ1h5oRVcLFkMOnFaHQjBCMWl5DVKAa9tcLn9hBft7DR_hodasts4l4botytihY4lZywD1bc3Z/s1189/teyomi05.jpg" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1189" data-original-width="1189" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhJ0RCfEy6XrWD1MxzdsusLiMV5gPkUDu8ETJHu3L14lcPTsNwhgNUrQdlw1jhUTUDZaRDJ1h5oRVcLFkMOnFaHQjBCMWl5DVKAa9tcLn9hBft7DR_hodasts4l4botytihY4lZywD1bc3Z/s320/teyomi05.jpg" /></a></div><span style="font-size: xx-small;">夜のニューデリーを駆け抜ける</span><span style="font-size: xx-small;"><span title="編集済み">!</span></span> </div><p> </p><p> </p><p> </p><p> </p><p> <br /></p>てよみhttp://www.blogger.com/profile/13418012544538145754noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-4649659134241655859.post-7495053519297404952020-09-04T20:30:00.005+09:002020-09-04T20:57:33.277+09:00ドビー官房長官<p> ぼんやりテレビを見ていて、菅官房長官って何かに雰囲気似てるなーと思ってふと浮かんだのが、ハリーポッターに出てくる屋敷しもべ妖精のドビーだった。しもべというだけあってご主人様に絶対服従で、命令に背いたら自分で自分を罰するなんとも痛ましい妖精。映画のなかでも怯えきったおどおどとした目つきが印象的なキャラだった。</p><p> まだ「令和おじさん」の頃はそんな顔つきではなかった気がしたので、昔の写真をネット検索してみると、いちばん変化を感じるのはやっぱり目つき。いまの目は焦点があってないような、生気を奪われているような、不穏な感じすらしてしまう(個人の感想です)。</p><p> 菅官房長官に限らず、政治家の顔って就任当初から結構変化する。顔にじんわり灰汁が出てくるというか。ふだんどういう風にものを見て、どんな振る舞いをして、何を肝に据えているのか。権力を持った人特有の何かが、瑣末なことも含めその人の顔に滲み出ているように感じる。生き方が顔に出る例としては、分かりやすい職業なのかも。</p><p> 手相も変化するけど、なかなか見られない他人の手のひらと違って、顔は変化が観察しやすいから面白い。目はもちろん、口も、口角の上がり下がりや歪み具合なんかにその人のコンディションが出ていたりする。別に特別、観相学を勉強していなくても、空を見て「あ、雨降るな」と察知するように、誰でも人の顔をみたら自然と何か察知しているもの。なのでいまの全員マスク状態は、顔観察的にはちょっとつまらない。</p><p> 最近は、生身の人に会うことがめっきり減り、会ったところでマスクにソーシャル・ディスタンスで、自分の他者への身体察知力みたいなものがどんどん薄れているような気がする。このままコミュニケーションはもっぱら仮想空間のなか、なんて世の中に本気でシフトしてしまったらどうしよう。アバター占いとかやりだすんだろうか?</p><p> 身体は意識よりも先に動くものだという。体が眠いから眠るのであって、意識して眠ることはできない。その自然の動きにその人の思考が連動して、その人らしさや個性が身体に刻まれていく。だから手相も顔つきもみんな違い、変わっていくのも自然なこと。</p><p> もし、身体的に動かずにすべて脳からのコントロールで完結される世界が中心になったら、手のひらや顔からは何をよみとることができるんだろう? 昔の手相の指南書に「手相とは脳相のこと」って書いてあったけど、仮想空間に生息している人の生身の方の頭をパカっとあけて、脳みそを直接みたらいいのか???</p><p> ま、知り得ない未来を憂いるよりも、ひとまず明日も生きるためには、このポンコツな我が身と付き合っていくしかないし、この国の政治がこのまま腐らないように目を離してはいけない。</p><p> ドビー官房長官は、さっさとご主人様から靴下でもマスクでも奪ったらまた当初の平穏な顔に戻るれるんじゃないかと勝手に思っていたけど(屋敷しもべ妖精はご主人様から衣類をもらうと自由になれる)、今度は自らご主人様(?)になろうとしているらしい。テレビで総裁選出馬の意向を語っていたのを見たけど、なんだか目つきがさらに影っていたような……。</p><p> ハリーの邪魔ばかりしていたようで実はハリーを助けるために尽力していたドビーのように、総理になったとたん、派閥が大好きなオワコンおじさんたちの掌を返して溜まりに溜まった膿を全放出してくれたりしないだろうか!と思わずドビー総理に一縷の望みもかけたくなる(一縷だけど)。</p><p> 政治家にはめずらしい聞く力に長けている横に突きでたその素敵な耳を活かして、オワコンおじさんたちの声ではなく、国民の声にちゃんと耳を傾けるリーダーになってほしいと願うばかり。</p><p> </p><p style="text-align: left;"></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgKMFvli75QzO3nVlge6lQon3XOU6OvasxJ45zyOQQwk21cyGSGSFiaiDNfcoej0XtDeMwtOHrdjoSoET1gAamWxPvjTZJAhgo_1SySMrC8kvwTaPIpK5h-B1Nnx86DOHX1nGzbg4fARNdH/s1113/doby.jpg" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="909" data-original-width="1113" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgKMFvli75QzO3nVlge6lQon3XOU6OvasxJ45zyOQQwk21cyGSGSFiaiDNfcoej0XtDeMwtOHrdjoSoET1gAamWxPvjTZJAhgo_1SySMrC8kvwTaPIpK5h-B1Nnx86DOHX1nGzbg4fARNdH/s320/doby.jpg" width="320" /></a></div><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><span style="font-size: xx-small;">描いてみたらあまり似てなかった……</span><br /></div><p></p>てよみhttp://www.blogger.com/profile/13418012544538145754noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-4649659134241655859.post-69416214877249659482020-04-02T15:36:00.001+09:002020-11-28T22:13:11.366+09:00子どもてよみ大会の反省としてのバナナ 幼稚園からの帰り、買い物をする母を待つ私に八百屋のおじさんはいつもバナナを1本くれた。私はバナナを握りしめ小さくお礼をつぶやく。おじさん、ありがとう。それが卒園までのおよそ2年間続いた。<br />
<br />
味もムリだけど、何より体にまとわりつくようなあのにおいが耐え難かった。母が漕ぐ自転車の後部座席からおじさんにバイバイをすると、家に着くまで自分の手を何度も嗅いで、おぇーってした。私はバナナが大っ嫌いだった。 <br />
<br />
こうしてバナナは、私にとって他人の善意の象徴となった。ツバの反り返った黒い野球帽をかぶり、ちびた鉛筆を耳に挟んだ仲本工事みたいな八百屋のおじさんのメガネの奥からのぞく笑った目。いまでもスーパーでバナナを見かけるたびにその視線がちらつく。 <br />
<br />
「子どもだからってみんなバナナが好きだと思うなよ!」という憤りは幼い私にも確かにあったはず。だったら最初に「バナナが嫌いなんです」と正直に言えばよかったのに。そうしたら2年間も嫌いなバナナを握りしめなくてすんだのに。十分に大人になってからも何度もぐるぐると考えてしまう。善意の圧力に屈したのか。自分の面倒な嗜好を申し訳なく思ったのか。世の中はシンプルに礼儀正しくまわっているので自分が荒立ててはいけない、と、危うげに自立しようとする感覚。<br />
<br />
今回の「子どもてよみ大会」を終えて、私はとても反省したことがある。それは、てよみの結果を子ども扱いするテキストで書いたことだ。子どもでも読みやすいようにと思い、語尾に「ね」とか「だよ」とか付けてフレンドリーな文調にしていたが、それこそ子どもへの偏見だった。伝え方の距離感に子どもも大人も関係ないし、私はふだん初対面の人にいきなりフレンドリーに話しかけるようなタイプの人間でもない。なのにテキストになると、子どもというイメージ先行で話を進めてしまっていたように思う。気がついたときにはあとの祭りだった。いつのまにか自分が善意のバナナを押し付ける大人になっていた。<br />
<br />
懲りずにまた機会をみて「子どもてよみ大会」ができたらと思う。ほんとうは会って手を触りながら話せた方がテキストにするよりずっと伝えやすいのだけど、当分むずかしそうな世の中なので、ことばで伝えることをもっとがんばろう。「あなたはバナナがお好きですか?」まずはそうたずねるところから。<br />
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<span style="font-size: xx-small;">『根本きこストーリーとフード』より「焼きバナナ」の挿絵。</span></div>
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<span style="font-size: xx-small;">もちろん作ったことはない。 </span></div>
てよみhttp://www.blogger.com/profile/13418012544538145754noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-4649659134241655859.post-17786074474020721872019-10-12T23:04:00.000+09:002019-10-13T00:07:56.286+09:00ノバトさん うちのマンションの小さな中庭にあるひょろっこい木の枝に、野鳩の巣を見つけたのは9月の終わり。野鳩はその体にしてはちょっと小さいんじゃ…と言いたくなるような巣を座布団みたいにしてちょこんと座っていた。キリッとした目つきで、こちらを警戒しているのか微動だりしない。それでもなんだかかわいくて、そこを通るたびにノバトさんに挨拶するのが私の日課となった。<br />
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<span style="font-size: x-small;">初めましてのノバトさん</span></div>
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いつ見ても銅像みたいに固まってるし、挨拶したところで返ってくるわけでもない。ケンタッキー前のカーネルとなんら変わらない立ち位置なのに、そこに生きていて卵をあたためているんだという事実が含まれるだけで存在が迫ってくるから不思議だ。なぜ、よりによってこんな丸見えで頼りなげな場所に巣作っちゃったの?という間が抜けた感じも、ノバトさんの愛嬌のように思えて日に日に親しみが増す。「おはよう」「いってきます」「ただいま」「おやすみ」。なんでもない言葉をノバトさん相手につぶやく毎日は、自分にとって新しかった。<br />
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私はずっとペットを飼うのをどこかで怖いと思っていた。 自分がいなければ生きていけない存在を作ってしまう怖さだ。なので、ノバトさんとの距離感は理想的だった。お互いに自立をしていて、干渉せず、対等で、ただそこに生きていてくれて、愛おしい。<br />
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<div style="text-align: center;">
<span style="font-size: x-small;">丸くなってきたノバトさん</span></div>
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野生の鳩の卵がどのくらいで孵るのかまったく知らなかったけど、ネット検索はしなかった。あくまでノバトさんと私との関係の中でわかることだけでいい気がした。日に日に羽を膨らませ丸くなっていくノバトさんを見て、そろそろなのか?と思ったり。でも卵が孵ったらそんな小さな巣で育てられるのか?と無性に心配になったり。<br />
<br />
ノバトさんとご近所になって11日目。史上最大の台風が近づいていると世間が騒ぎだして、私の頭の中はノバトさんのことでいっぱいになった。あんな枝にちょい乗せな巣、即落ちるに決まってる!!! 自分にできることはないか? でも人間が手出しをしてはいけない気もする。考えはぐるぐるし、思わずいつも聴いているラジオに相談メールをする。<br />
<br />
野鳥の会をしているリスナーさんからの助言は、「怪我をしていたりしない限り野生の生き物に人が手を加えてはいけない。もし巣が落ちてしまったら保護して行政の鳥獣保護に連絡すればよし」だった。とにかく見守るしかないらしい。とりあえず保護用のダンボール箱を用意して、あとは台風が外れてくれることを祈るのみ。雨に濡れた羽を膨らませまん丸になってるノバトさんを見て、胸がつまる夜。<br />
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEisfOuGWX7om7esFt0EPljXHaP9ksy0w-uoqpFWeosgSlbTW1KQ7xOvyZhMBGlLGcxPa5fKdFU2PkFxcncnKCkhEYtp27qxlM699Ckk3guXyX9vX1ZeCm4Vce_l66oIDUAwagGfOmEM71gQ/s1600/IMG_1798.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1600" data-original-width="1600" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEisfOuGWX7om7esFt0EPljXHaP9ksy0w-uoqpFWeosgSlbTW1KQ7xOvyZhMBGlLGcxPa5fKdFU2PkFxcncnKCkhEYtp27qxlM699Ckk3guXyX9vX1ZeCm4Vce_l66oIDUAwagGfOmEM71gQ/s320/IMG_1798.jpg" width="320" /></a></div>
<div style="text-align: center;">
<span style="font-size: x-small;">明後日台風くるらしいよノバトさん</span></div>
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台風到来前日の朝。いつものように挨拶しようとのぞいた先に、ノバトさんの姿はなかった。巣には白い卵が1つ。へぇ、ちゃんと卵あったんだ、とのんきに思うと同時に、あまりに唐突な展開すぎて自分の心拍数が一気に上がるのがわかる。もしかして巣から落ちたのかもと、巣の下を探しつつもドキドキが止まらない。いない。どこにもノバトさんはいなかった。<br />
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卵が孵らないと見限ったのか、台風に感づいて避難したのか、真相はノバトさんにしかわからない。一日経っても帰ってこないところをみると、本当にさよならみたいだ。<br />
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<div style="text-align: center;">
<span style="font-size: x-small;">ノバトさんのいない朝</span></div>
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ずっと同じ空間にいれば必ず親しみが湧くというものでもない。毎日会っていても心が通わない人はいる。人間でも、動物でも、モノにだってきっと相性ってものがある。そうやって考えると、ノバトさんへのこの気持ちは、やっぱりあのノバトさんでなければありえなかった愛しさだ。それと同時に、ノバトさんは野生の野鳩で、無情ということもなく、あるべき姿でただ生きていただけだとも思い知る。<br />
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台風のただなか、ぽっかりした心を浮かべてノバトさんのことを思う。<br />
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<span style="font-size: xx-small;">(この前のブログが「LOVE唐揚げ」だったりするけど、どちらもトリについての愛の話として読んでいただければ……) </span>てよみhttp://www.blogger.com/profile/13418012544538145754noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-4649659134241655859.post-84923994704508457872019-08-24T15:30:00.000+09:002019-08-25T15:30:30.373+09:00LOVE 唐揚げ おいしい唐揚げにありつくたびに、一人じゃなくてよかったなあと心底思う。<br />
もし、この世界に唐揚げが好きな人間が私一人だけだったら、精魂こめておいしい唐揚げを作ってくれるお店は一件もなく、よりおいしい作り方を考案してくれる料理研究家はきっといない。<br />
私は一人、誰にも見向きもされず鶏肉に下味をつけ、片栗粉をまぶし、黙々と揚げるのだろう。それだって悪くないかもしれないが、自分という可能性から突き抜けた唐揚げに出会う喜びは知らないままだ。<br />
唐揚げに携わる人たちがちゃんと商売になるくらいに、唐揚げを求める人たちがいる世界。唐揚げを求める人たちの中には、私の嫌いな人だっているかもしれないけど、それだって唐揚げの前ではありがたい存在だ。<br />
そんな世界に生まれて私は本当に運がよかったと思い、一人じゃない素晴らしさを、一人奥歯で噛みしめる。<br />
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjUS71Tn2XtEJltcqIgKJcpeN3F_7idkqwHWGKFr0ksZoJecT0nHIu8Nw7B1fE0eBV4z76_N1y43J9W1i5Nlgkj9nph2ye3SUgyTHQmkvIPFkOa7zX4WimWb_FzKXQV_cSc4kuY_WBxMNSN/s1600/E9E5320F-7268-4719-A35A-1796757C204E.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1600" data-original-width="1600" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjUS71Tn2XtEJltcqIgKJcpeN3F_7idkqwHWGKFr0ksZoJecT0nHIu8Nw7B1fE0eBV4z76_N1y43J9W1i5Nlgkj9nph2ye3SUgyTHQmkvIPFkOa7zX4WimWb_FzKXQV_cSc4kuY_WBxMNSN/s320/E9E5320F-7268-4719-A35A-1796757C204E.JPG" width="320" /></a></div>
<div style="text-align: center;">
<span style="font-size: xx-small;">Y駅にある中華そば屋の唐揚げは衣がザクザクで塩味で本当に美味しくて毎日でも食べたい。</span></div>
<div style="text-align: center;">
<span style="font-size: xx-small;">ごちそうさまでしたと挨拶すると前歯の欠けた店主が満面の笑顔で</span><br />
<span style="font-size: xx-small;">「またお待ちしてます!」と言ってくれるのもおいしいの一部</span><span style="font-size: xx-small;"><span style="font-size: xx-small;">。</span></span></div>
てよみhttp://www.blogger.com/profile/13418012544538145754noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-4649659134241655859.post-51414100314473784072019-05-21T22:25:00.000+09:002019-08-24T17:19:55.929+09:00サボテンときのこと私たち ある撮影現場に居合わせたときのこと。フランス人の長身で細マッチョな男性モデルを目の前にした日本人サラリーマンのKさんが、「世の中不公平だよなあ〜」と自分の出っ腹をさすりながら自嘲気味に呟いたので、「いやいや、Kさんもあのモデルさんもよく似てますよ」と話しかけた。<br />
「目は二つあるし、鼻は一つだし、口も一つ、耳は頭の横に二つくっついてるし、五本指で手も二つ、二足歩行だし、世界をカラー三原色で見てる。そっくりですよ!」<br />
Kさんは苦笑してたけど、私が心の底からそう思ったことに嘘はない。<br />
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電車に乗っているとき、目の前に座る制服を着た女子高生が本当は50過ぎだとしても驚きはしないな、と思ったことがある。その女子高生が老けていたからとかではなく、その電車に乗っているすべての人間が、若くも年寄りにも見えて、どちらでもあるように思えた。<br />
ドア横に寄りかかってスマホを見ているあなたと、優先席でぐったり眠っているあなたの違いは何だろう? 年齢、声、クセ、昨日食べたもの? そんな全然違うかもしれない私たちは、同じような眠たい目つきで停車駅の名前を確認したり、お互いに隣に座る人間をちょっと不快に思ったりしている。私たちは大して違わないんじゃないか?<br />
<br />
だいたい同じ形状でできている私たちは、仮に頭の中ではいろいろ考えていたとしても、やることといえばよく似ている。起きて、ごはんを食べて、うんこをして、眠る。とりあえず、生きていこうとしているところなんてそっくりだし、「明日」があるってふつうに思っているところなんて、とても私たち人間っぽい。<br />
<br />
他の生物からすれば、私たちの違いなんて不明瞭だろう。そのサボテンとあのサボテンの違いが、私にはよく分からないように。<br />
私にとってサボテンは、「トゲトゲして暑さに強い奴ら」だ。サボテンにとって人間は、「せっかく体に取り入れた養分を排泄しちゃう不思議な生き物」かもしれない。<br />
<br />
きのこ狩りに行くと、最初はぜんぜん見つけられなかったきのこが、森に目が慣れるにつれて一気に見えてくる瞬間があるという。それまで森と同化して身を潜めていたきのこたちが、「実はこんなにいたのさ!」とどっと出現するそうだ。<br />
<br />
人の手のひらをじーっとみていると、そんなきのこが出現するような瞬間がある。5本の指と、手のひらの丘を縫うようにある生命線、感情線、頭脳線などの構造は誰でも同じようだけど、その手のひらをよくよく読み込んでいくと「こんなにみんな違うんかいっ!」と、途方にくれたくなるような瞬間が。<br />
<br />
宇宙から見ればひとまとめにされてしまうだろう私たちは、それぞれの小さな渦の中では、なんとさまざまなんだろう。サボテンと、きのこと、人間の違いがあって、サボテンの中と、きのこの中と、人間の中にも、とても細やかでかけがえのない違いがある。<br />
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みんな似ていて、みんな違う。<br />
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgZNT9_DQ6dXdOkn4L4cAMDy8EksfFdIV8gFnDjYeaEfQHE8DAh6fTuh7OgvUDQagau-g2WenhpptL8wZAqm40aayhzWnpldbKE8eGECMtW_aptPMHuRecCy_VapRFwEGqPhtM-Nv0Nqgqh/s1600/IMG_8594.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1079" data-original-width="1080" height="319" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgZNT9_DQ6dXdOkn4L4cAMDy8EksfFdIV8gFnDjYeaEfQHE8DAh6fTuh7OgvUDQagau-g2WenhpptL8wZAqm40aayhzWnpldbKE8eGECMtW_aptPMHuRecCy_VapRFwEGqPhtM-Nv0Nqgqh/s320/IMG_8594.JPG" width="320" /></a></div>
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<span style="font-size: xx-small;">新宿御苑内の温室のサボテン「キンシャチ」。</span></div>
<br />てよみhttp://www.blogger.com/profile/13418012544538145754noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-4649659134241655859.post-47422678981713432232018-06-25T10:01:00.000+09:002018-06-25T22:01:14.419+09:00ボディハッカーさんの手“ボディハッカー”とは、自分の身体を改造している人のことをいうのだそうだ。改造といっても、義手やマイクロチップを埋め込むなどの実用的なものから、ライトを手の甲に埋め込んで透けて光る皮膚を楽しむなんていうアートな嗜好のものまであるらしい。まったく馴染みのない世界だけど、コンピューターに不正侵入する人をハッカーと呼んだりすることからして、肉体に不正侵入しているような、なんだか不気味な感じがしてしまう。<br />
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私がテレビ<span style="font-size: x-small;">(「クレイジージャーニー」大好き!)</span>で見たカナダのボディハッカーさんは 、頭頂部にシリコンを入れて作ったツノが二本、顔半分にレースのように細かい白いタトゥが施され、眉間、耳、鼻、顎など顔まわりだけでもピアス15個くらい、首にもぎっしりタトゥ、そして手には自宅やバイクの鍵にもなっているマイクロチップを埋め込み済み、という仕様の方だった。<br />
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEj7w_ShcLu6sLhqNFqy3zCT8CInRTLTCIhQey8JnnUQJvWWTbqvU26fswm6GwsL6zM3lLRAjagWpefcCzj_qAZEqQOQrgJp1lFj1Eq0pQTigXRv1uKdTvtxJVtnirFTtlTTRM_b3TMeCYCv/s1600/bo.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1600" data-original-width="1180" height="640" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEj7w_ShcLu6sLhqNFqy3zCT8CInRTLTCIhQey8JnnUQJvWWTbqvU26fswm6GwsL6zM3lLRAjagWpefcCzj_qAZEqQOQrgJp1lFj1Eq0pQTigXRv1uKdTvtxJVtnirFTtlTTRM_b3TMeCYCv/s640/bo.jpg" width="472" /></a></div>
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
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道ですれ違ったら二度見どころじゃすまされないお顔である。そんなクレイジー道まっしぐらなボディハッカーさんの手のひらがテレビ画面に映し出され、これまた釘付けになりました。<br />
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEizDYgrXtcju10IVUwoexa83K-HLSv9xjFqr4hgPyvm0u2V0b2e_dyNmPNjXe6pGD8XnWAt9kXTBvStwv0fdGS4B0j9g3O8UxtcMaAq16x78YPGgtPsIUlzuv3WEUp-MAhtc8fokt_4sLvk/s1600/IMG_8578%252B.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1129" data-original-width="1600" height="225" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEizDYgrXtcju10IVUwoexa83K-HLSv9xjFqr4hgPyvm0u2V0b2e_dyNmPNjXe6pGD8XnWAt9kXTBvStwv0fdGS4B0j9g3O8UxtcMaAq16x78YPGgtPsIUlzuv3WEUp-MAhtc8fokt_4sLvk/s320/IMG_8578%252B.jpg" width="320" /></a></div>
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こ、これは、めっちゃ、ノー・クレイジー!!!<br />
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頭脳線と生命線の根元がしっかりくっついていて、石橋叩いても渡らないかもしれない用心深さ。頭脳線は横に長く、リアリストで合理的なことを好み、徹底的に考えて行動するので無茶なことはまずしない。感情線もおだやかに長く、愛情深く生真面目さが伺える。ちなみに張り出した生命線に乱れもなくとても健やか。<br />
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なんと誠実な手なんだろう。とてもツノが生えたイかれた人には思えない。何も知らないでこの手だけを見せられたら、地味なスーツ姿で役所なんかで働いていて親戚のおばちゃんたちがこぞってお見合いさせたがるような実直な青年を思い浮かべるだろう。<br />
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意外性満載で呆然とするが、 いや、だからなのか。<br />
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身体改造なんてふざけてやったら命とりだ、誠実な人でなければやっていけないのかもしれない。自身もボディハッキングの施術を仕事にしているという彼は、指先が丸く器用そう。それに長く横に伸びる頭脳線は、医者に向いてるといわれる線なので、同じく身体を扱うボディハッキング師(?)にもうってつけなのかもしれない。きっと人からも信頼される腕前なんだろう。顔だってよくみればやさしそうじゃないか。<br />
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ボディハッカーさんは、ヘンタイであることにとても真摯な人なのだ。<br />
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「創造性豊かな人間はヘンタイである」とタモリさんが言っていたことを思い出す。創造することに誠実であるがゆえにヘンタイになるのであり、ヘンタイになるには誠実さが不可欠ともいえる。また、ヘンタイとは精神の有り様なのだから、外見でそれが伝わるか伝わらないかは別問題なのだ。<br />
<br />
これは「人は見た目では判断できない」というよくある教訓ともちょっと違う。ボディハッカーさんのクレイジーな見た目があった上で、その誠実さが見えるか見えないか。こちらの教養が問われているようで、ドキッとする。<br />
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当初、黒い森に潜む悪魔のように見えたそのお顔が、新進気鋭のエンジェルに思えてきた。これも手のひらのお導きなんだろうか。私もいつかこのエンジェルにマイクロチップでも入れてもらおうか、なんて思ったり。。。てよみhttp://www.blogger.com/profile/13418012544538145754noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-4649659134241655859.post-17785438349967179552018-05-18T00:36:00.000+09:002018-05-19T16:50:47.351+09:00よっちゃんとアドラーちゃん<幸福は対人関係の中でしか得ることができない><br />
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って、本当にそうだろうか? アドラー心理学をちょっとばかしかじってから、ずっと引っかかっている定義である。<すべての悩みは、対人関係の悩み>であり、<すべての喜びもまた、対人関係の喜び>だとアドラーはいう。<誰とも関わらなければ悩みはないが、その代わりに喜びもない>って、極論だけど、まあ、そうかも? うん、でもなにかガッテンできない。<br />
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ここでよっちゃんである。<br />
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<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgcad9NTmlvdBZaH5Asik66acG4XfEuPt0yYGjdGafP1SJvDEqSo2RedCYaOdmUFk6d-b9lRt-JnEUz4uaU46AfMp33cS51Ls0xkPD-_gCdw5h71GQNT6mQaphTKpZPHhT1YRWQbKYu-bSd/s1600/yo_+02.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1505" data-original-width="1451" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgcad9NTmlvdBZaH5Asik66acG4XfEuPt0yYGjdGafP1SJvDEqSo2RedCYaOdmUFk6d-b9lRt-JnEUz4uaU46AfMp33cS51Ls0xkPD-_gCdw5h71GQNT6mQaphTKpZPHhT1YRWQbKYu-bSd/s320/yo_+02.jpg" width="307" /></a></div>
<br />
黒の油性マジックを使ってメイクをし、女性物の洋服を好み、巣鴨に出没する75歳のおじいちゃん。「月曜から夜ふかし」というテレビ番組の街頭インタビューをきっかけに一躍有名人になった。私もそのデビュー(?)からずっと衝撃を受けている一人です。<br />
<br />
どうしたって目が離せなくなるよっちゃんだけど、奇をてらってそんな格好をしているわけではないようで、子どもの落書きみたいにまつげを描いたぱっちりおめめも、マジックの太い方で横一文字に描いたおひげも、「いい男」になるからやってるのであり、女性物の洋服も、小柄なよっちゃんにはぴったりで、柄もきれいで楽しいから着ているんだそう。<br />
<br />
そんな格好をするようになったのは60歳の頃からだそうで、<br />
<br />
「たまたま鏡を見たのね。バカみたいな顔だし、年寄りくさい気がしたから、マジックでたまたまやったのね。そしたらいい男なんでよ、それから15年」<br />
<br />
ということらしい。よっちゃんは、自分で発見したメイクやファッションをとことん楽しんでいる。他者からどう見られるかなんて気にしているようすはない。気にしないと決めたのか、本当に気にならないのかは分からないけど、これは、あれだ、アドラーのいう、<br />
<br />
<「わたし」の価値を他者に決めてもらうことは依存。「わたし」の価値を自らが決定することが自立><br />
<br />
からすると、よっちゃんはめっちゃ自立した人である。そして、<依存する人は永遠に満たされることのない生を送る>のに対し、<自らを承認した自立した人の先には幸福な生がある>というんだから、よっちゃんは、アドラー的にもいまを幸せに存在していることになる。<br />
<br />
そこで冒頭の私の疑問に戻ります。<br />
<br />
本当に、<幸福は対人関係の中でしか得ることができない>のか? <br />
<br />
この「対人関係」に欠かせない「他者」のことをアドラーは、「自分と結びついた人」=「仲間」といっている。その上で、<他者を自分を陥れようとする「敵」と見るか、必要があれば援助する用意がある「仲間」と見なすか>という2択を私たちに突きつけてくる。<br />
<br />
<対人関係の中に入っていく勇気のない人が他者を敵と見なし、逆にいえば、他者を仲間と思えれば、対人関係の中に入っていく勇気を持つことができる>んだって!<br />
<br />
確かに、自分がうまくコミュニケーションできないことを「あいつはやな感じだから」と他者のせいにするのは簡単だ。コミュニケーションだけではない、「ブサイクだから彼女ができない」とか、「病気だから仕事ができない」とか、それらしいもっともな原因(トラウマ)を掲げれば、自分ができないことを正当化できる。そしてできない自分にいつのまにか安住してしまう(ちなみにそれをアドラーは「劣等感コンプレックス」と呼んでいる)。<br />
<br />
うーん、なかなか手厳しいね、アドラーちゃん。ただ、反対に考えれば、元々人はあらゆる原因に縛れられることはなく、自分がそう決めれば変われる「生きる自由」を持っているのだ!という、厳しくも優しい定義にも思える。<br />
<br />
「原因」は人生に「影響」はするが、人生を「決定」することはできない。決めることができるのは自分の意志だけ。しかし決めるには勇気がいる。アドラー心理学は勇気の心理学ともいわれているそうな。<br />
<br />
ちょっと話が外れてしまったけど、<幸福は対人関係の中でしか得ることができない(しかも、他者を「仲間」と思えないといけない)>問題について、<br />
<br />
ここで再びよっちゃん登場である。<br />
<br />
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgSmGuD54kf2s-zDMErYkHxMgxYyi_FKe66SJSEZb89Um_lk162nQnS-6DG0wQXQZwV_YDv0iqgMLD5_IzJfonPYsSWTigcjta94A2rzpYU3_QsB_8Xqb5KgVm8DQYvzTDeZtBWkoZKcL-v/s1600/yo_+01.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1505" data-original-width="1357" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgSmGuD54kf2s-zDMErYkHxMgxYyi_FKe66SJSEZb89Um_lk162nQnS-6DG0wQXQZwV_YDv0iqgMLD5_IzJfonPYsSWTigcjta94A2rzpYU3_QsB_8Xqb5KgVm8DQYvzTDeZtBWkoZKcL-v/s320/yo_+01.jpg" width="288" /></a></div>
<br />
つい先日、「夜ふかし」で公開されたよっちゃん手書きの人生グラフに私は釘付けになった。<br />
<br />
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</div>
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhW-cl2OgtwTOdmzvS1XFSG6Ui8_YzkLNcMYnoHCIm4IaTteMrK3p4-UkquUM4Bm9NUURjNpytjsb-JYaBj_RHDjjvh7yNwbd4HzCSxteWos-KMdpGpOKoUZxNIyJ3Q8FqP9Johwgzis7wV/s1600/yo_+graph.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1182" data-original-width="1600" height="295" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhW-cl2OgtwTOdmzvS1XFSG6Ui8_YzkLNcMYnoHCIm4IaTteMrK3p4-UkquUM4Bm9NUURjNpytjsb-JYaBj_RHDjjvh7yNwbd4HzCSxteWos-KMdpGpOKoUZxNIyJ3Q8FqP9Johwgzis7wV/s400/yo_+graph.jpg" width="400" /></a></div>
<br />
グラフをよくみると、よっちゃんの人生が落ち込んだのは「働き出して社会にもまれて行く」20歳前後あたりから。 その後、「職を転々としイジメ等イヤなこと起こる」30代、「ユメも希望もなくなる、ドロボー(にあう)だの対人関係にイヤ気」の40代、「人生につかれる、ガタ来る」50歳でどん底。ここまでを「楽しくない」と一括している。<br />
<br />
がしかし!<br />
<br />
「♡ 仕事ない、好きなこと出来る、孤独愛する、対人のわずらわしさなし、年とったらバラ色だ!」と60歳からいきなり急上昇! そう、あの油性マジックメイクを始めた頃から、よっちゃんの人生は逆転した。<br />
<br />
さあ、どうだ、アドラーちゃん!<br />
<br />
よっちゃんをどん底にしたのは本人も明記するように対人関係にある。そして、よっちゃんを「楽しい」に一気に押し上げた理由には、その対人関係からの解放が大きくある。アドラーの定義とは真逆、対人関係の外に出る勇気により、よっちゃんは幸せを得たのだよ!<br />
<br />
そこで、恐れ多くがすぎるけど、私はアドラーちゃんに提案します。<br />
<br />
他者を敵か仲間かという2択ではなく、「敵でもなく、仲間でもない」と考えるのはどうかな? <br />
<br />
他者はただただ他者であり、まずは憎む相手でも、愛する相手でもない。 そんなフラットな立場から、放っておいても関係が“始まる人”とは始まるし、“始まらない人”とは始まらない。<br />
<br />
もっというと、始まらないことが気になる人がいれば、その時点で、その人とは関係が始まっているのであり、そうなったらアドラーちゃんのいう勇気(他者は仲間!)を持って対人関係に踏み込めばいい。<br />
<br />
フラットな立場でいる上で大事なのは、「他者は敵ではない」と思えることと、他者と関わる際には「デフォルト親切」にすること。そこから対人関係に入っていってもよし、入らないままフラット維持でも別によし。<br />
<br />
ね、アドラーちゃーん、対人関係のストレス多々な現代社会だし、これくらいのゆるさでよくなくなーい?<br />
<br />
よっちゃんは、「自立」=「自分の価値を自分で決めること」を獲得したことで、対人関係をフラットにできたんじゃないかな? それで周囲のしがらみから自由になって、楽しい自分と楽しく過ごすキラキラステージに辿り着いたのでは?(もちろんそこに孤独はある。でも孤独は不幸ではないもんね)<br />
<br />
よっちゃんの勇気について、もっと聞いてみたくなる。<br />
<br />
ひとつだけ、誤解しないでほしいのは、決して、対人関係の中では幸福を得られないといっているわけではない。<br />
<br />
よっちゃんだって、わずらわしさから脱却して孤独を愛するといっているけど、こうしてテレビに出たり、街を歩いたりすることで、新たに生まれた対人関係の中、感じる幸せもきっとあるはず。<br />
<br />
独りの幸せと、誰かとの幸せと、両方あっていいよね。<br />
<br />
どうかな? よっちゃん、アドラーちゃん!<br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjI0cHlWpYa3iWij6xy7lK8RIEQrnthIXboSbCmiHpT9K1o7UAXnDa4NwkEDODJ_08BS13FDC9ErSY3OC0fMdgCyAsfcfxrFqqi5XKjF0GR0TUDktkTgSJhlwgHh4xowRL0Hhn3hedyW7K9/s1600/yo_+03.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1600" data-original-width="1378" height="400" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjI0cHlWpYa3iWij6xy7lK8RIEQrnthIXboSbCmiHpT9K1o7UAXnDa4NwkEDODJ_08BS13FDC9ErSY3OC0fMdgCyAsfcfxrFqqi5XKjF0GR0TUDktkTgSJhlwgHh4xowRL0Hhn3hedyW7K9/s400/yo_+03.jpg" width="343" /></a></div>
<br />
<br />
<span style="font-size: xx-small;">*アドラー心理学について引用させていただいた書籍</span><br />
<span style="font-size: xx-small;">『幸せになる勇気』岸見一郎・古賀史健著</span><br />
<span style="font-size: xx-small;">『幸福の哲学 アドラー×古代ギリシアの智恵』 岸見一郎著</span><br />
<br />
<br />
<br />てよみhttp://www.blogger.com/profile/13418012544538145754noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-4649659134241655859.post-27795300425621165092018-05-11T00:38:00.000+09:002018-05-19T16:08:05.507+09:00「友蔵になりたい」女子の手彼女は30代で、未婚で、企業の広報として働いている。仕事は忙しく、理不尽な要求も多く、心身ともに疲弊する日々、らしい。<br />
<br />
そんな彼女が羨望してやまない“友蔵”とは、「ちびまるこちゃん」のおじいちゃんのこと。日なが一日のんびり縁側などでお茶をすすって、孫のまることの交流を何より楽しみに生きている、そんな友蔵みたいな暮らしをしたいという。<br />
<br />
つまり、働かないで、誰にも責められず、ごはんもちゃんと食べられて、大事な人もいるという暮らしに、彼女は心底憧れている。そう、それは<br />
<br />
=隠居。<br />
<br />
そういえば江戸時代では、四十でもう「ご隠居さん」になれた。平均寿命が早かったというのとは別に、そういう役割の判然としない存在を許容できた懐のある世の中だったんじゃないか。<br />
<br />
人生100年と言い出した現代日本では、定年も70に引き延ばすかだの、生涯現役ムードも強まり、実際にビルの清掃や警備の仕事を年配の方がされているのをよく見かけるようになった。<br />
<br />
「幸福」は、誰か(何か)に必要とされている方が感じやすいという脳科学的な観点からすれば、仕事をしている方が人は幸せに近いともいえなくもないが、一生働くのか〜と考えると、なんともしんどい気分になるのも確か。<br />
<br />
(AIが台頭することにより人間は働かなくてもベーシックインカムで暮らしていける21世紀型“ニュー隠居ライフ”を私は渇望します!) <br />
<br />
この先、この国で彼女が友蔵になれる道はあるだろうか? 彼女の小さな手のひらを眺めながら考えてみる。<br />
<br />
マスカケ+頭脳線と、短い線が重なるようにできた金星環。マスカケ自体に頭脳線の意味もあるので2本の頭脳線で考察力たくましく、金星環と感情線のヒダの多さもあって、野生の勘というべきか、とにかく察しがよく、人の倍考えて感じる人。感受性が強い分傷つきやすいのに、加えて根が真面目で自分の正義に忠実。その正義感からか売られてない喧嘩まで買っちゃうし、戦闘後に傷だらけになって「友蔵になりたい〜」と嘆き落ち込んでも、小さな手の人らしく、またよっしゃ!と立ち上がる。<br />
<br />
これじゃ生きるのにエネルギー消費も半端ない(彼女がごはん大盛りを常にするのもそのせいか?)。友蔵みたいに省エネでのほほんと生きることに憧れるのも分かる気もする。ただ、本人が望むほど人生をサボれる性質ではないのも確かで、察しのいい彼女にその自覚が薄いのが謎である(いや、本当は分かっているのか?)。とにかく、己の行く先にある問題は、自分で考え立ち向かわなきゃ気がすまない。誰かに頼るのはちょっと苦手。ってことは、一生働いちゃうタイプ。<br />
<br />
うーん、ぜんぜん、友蔵、向いてない!!!<br />
<br />
本人のプランとしては専業主婦になって友蔵暮らしを実現するんだそうだけど、そんなの相当裕福な相手でなければ難しいよね。それと、家にあんまりいない人がいい。誰かと一緒にいすぎちゃうと、彼女の野生の勘がビビビッと発動し、正義感と戦闘意欲を刺激、お互い傷だらけとなりかねない。好きな人にも忠誠心強いタイプだけど、ほどほどの距離感をキープした方がお互いのためと伝えておきます。<br />
<br />
そうしてみた結婚線からは、ちょっと年下との縁ありとある。はて、彼女より年下で、そんな稼ぎが良くて余裕のある男子がそうそういるだろうか? どちらかというと彼女が友蔵を養う方なんじゃ、、、!<br />
<br />
ま、これ以上は手相で分かる話ではない。<br />
結局、彼女に私が言えることはひとつ。<br />
<br />
あなたは友蔵にならなくても、たくましく人生をエンジョイできます!<br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEh-mdjbMZCmshYbdtvAqcZN8CM7b1pfwa8hKCM2kVm8lPZttOPE1pezdOSrR9Nl1_Wq9zAwUaVx2h81vMCGhPaOuk1wbwbS0uTAT9YpZZnFk7pLCJ20HI_UPVqSX_orsRTh91Q1ItvxIlI0/s1600/IMG_8457.jpg" imageanchor="1" style="clear: left; float: left; margin-bottom: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1055" data-original-width="1600" height="262" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEh-mdjbMZCmshYbdtvAqcZN8CM7b1pfwa8hKCM2kVm8lPZttOPE1pezdOSrR9Nl1_Wq9zAwUaVx2h81vMCGhPaOuk1wbwbS0uTAT9YpZZnFk7pLCJ20HI_UPVqSX_orsRTh91Q1ItvxIlI0/s400/IMG_8457.jpg" width="400" /></a></div>
<br />てよみhttp://www.blogger.com/profile/13418012544538145754noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-4649659134241655859.post-17987734295644719042017-06-21T02:37:00.000+09:002018-05-19T15:28:26.156+09:00嘘つきの手(BUTTER を読んで)<br />
手のひらをみただけでその人が嘘つきかどうか分かるかといえば、分からない。でも逆に「嘘がつけないないまっ正直な人」の手は、わりとくっきりイメージできる。<br />
<br />
――肉厚で弾力のある手のひらは心のどっしりとした丈夫さを、そこから養分を吸い上げて勢いよく這う根のような生命線と感情線と頭脳線は満ち満ちたエネルギーで見て感じて自分で考え抜く力を、やや小指側の手首の方から斜めに立ち上がる力強い運命線は子どもの頃から許されてのびのびと暮らしてきた人特有の大らかさを示している。感情線の先端は指の付け根に届かない開け離れた心のドア。きっと、薬指の下の丘にはくっきりひと筋の太陽線が伸びている。文字通り、周囲を太陽の光のように明るく照らす人だ。<br />
<br />
<br />
『BUTTER』柚木麻子・著(新潮社)の物語は、2009年に発覚した首都圏連続不審死事件がモチーフとなっている。この本を取り憑かれるように一気に読んで、実際にいまは死刑囚となった木嶋佳苗をモデルにした登場人物・梶井真奈子<カジマナ>はどんな手をしているかな?と、ふと考えた。<br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgU4i1VtKt8K9L-dzpbV_s0MU9BDjtGK-h7lb1HG1Tz7CTVBD08YtwtJYFwpIe2ywHFPJazUvyRwq9qr5xLu8OzDuaMgNt4IhkOIeQk2YYb99-Ms952XM_0oyr0M3iYbZxbCBLMeRto7GhK/s1600/IMG_5940.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1600" data-original-width="1600" height="400" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgU4i1VtKt8K9L-dzpbV_s0MU9BDjtGK-h7lb1HG1Tz7CTVBD08YtwtJYFwpIe2ywHFPJazUvyRwq9qr5xLu8OzDuaMgNt4IhkOIeQk2YYb99-Ms952XM_0oyr0M3iYbZxbCBLMeRto7GhK/s400/IMG_5940.JPG" width="400" /></a></div>
<br />
カジマナは徹底して見たいものしか見ず、他者から受けたダメージは独自の美学で練り上げた脚本に書き変え、好きな時に好きなものを好きなだけ食べ、食べたくないものは絶対に口にしない。自分の容姿が世間から嘲笑されていようと、そんなことは自分の価値観に当てはまらないと一蹴する。女はみんな自分より劣ったところがある同性といたがるもので、自分のように選ばれし人間といると苦しくなるものなのだと、激しく主張する。<br />
<br />
尊大に自己肯定するカジマナに世間は呆気にとられ、苛立ち、目が離せなくなる。<br />
<br />
この物語の主人公・女性記者の里佳のようにカジマナに何度も接していると、彼女が本当は罪無き3人の男性を騙し殺めた卑劣な悪人などではなく、全ての女性が真底願いつつも叶えられない姿を体現した孤高の救世主のようにすら思えてくる。<br />
<br />
彼女は世間の価値観に惑わされない深い知性を鎧に消費されたフェミニズムの矛盾点を暴き、自己の哲学に揺るぎない忠誠心をもって生きている。私は私。そんな奔放な態度に崇高ささえ感じ、憧れにも似たものを覚えてしまう。 自分に甘すぎるその容姿ですら「もっと自分を許してあげて」とこちらに語りかけてくるようだ。<br />
<br />
しかし、そんな堂々としたカジマナの言動には、ずっと不気味な通奏低音が流れている。「ダイエットほど無意味でくだらなく、知性とかけはなれた行為はありません」と世の女性を奮い立たせるような毅然とした発言の数々とは裏腹に、どんよりとまとわりつく不可解さ。その根っこはどこにあるのか? <br />
<br />
それは100%の自己肯定感だ。<br />
<br />
拘置所のアクリル板越しのカジマナが里佳に向かって「あなたはもっと自分を好きになるべきなんじゃない?」と語りかける場面がある。自己評価が低すぎるから自分をすり減らしているのだと。<br />
<br />
自己評価の低さ。これは私自身よく感じることでもあり、てよみをしていて相手に思うときも多々ある。あなたが思うほどあなたはぜんぜんダメではないしむしろすごいよ!!!と、言葉にするとただのお調子取りのように聞こえてしまうが、そんな思いが先に溢れすぎてうまく伝えられないときもよくある。<br />
<br />
自分が好きになれず、コンプレックスで溺れ死にそうになる。そんな思いは多かれ少なかれ誰もが抱いたことがあるんじゃないか。私たちが自己肯定しづらい理由を考えだすと話が広がりすぎるのでここではやめるけど、それでも不安を奥歯に噛みしめてなんとか歩いているうちに、自然と獲得した自分への信頼だってある。それはいちいち“自己評価”の台の上に乗せてまじまじと眺めたりはしない種類のものだ。<br />
<br />
「女性は誰しも、あなたのように自分を好きになって自信を持って振る舞いたいと思っているけど、それが一番難しいんじゃないか」と問い返す里佳に向かって、「自らの心や体に耳を澄ませて一番食べたいと思うものを好きなだけ食べればいい」と説くカジマナ。<br />
<br />
自分自身の身体だけで完ぺきに満たされれば他者を必要としない。だから完全な自己肯定もできる。そして何者にも縛られないからとことん欲望を追求できる。しくみは分かるけど、その獰猛なまでにポジティブな姿はなんといびつなんだろう。<br />
<br />
100%の自己肯定とは、他者を切り捨て自分だけの異界に生きること。そんな風に思える。<br />
<br />
<br />
それで、カジマナはどんな手をしているか妄想してみる。<br />
<br />
――ぽっちゃりと白いふくふくとした手のひらは、いたずらっ子のようなわがままさがありながら吸い付くように湿っていて意外に神経質。小指側の手のひらは想像力の雨をたくさん含んだ雲のように重く膨らみ、そこにキレギレの頭脳線が突き刺そうと伸びてきて身勝手なロマンチストぶりを発揮している。感情線と頭脳線を毛羽立った鎖編みの毛糸が横一直線に結び、人を惹きつけるミステリアスな雰囲気にぞんざいな綻びが網目から見え隠れする。急カーブを描く生命線がとり囲む親指の付け根は、つきたてのお餅のように柔らかくぱんぱんで、過剰なバイタリティが今にもぷっくりと弾けそう、、、<br />
<br />
カジマナの手のひらを頭の中でじっくりと点検して思うのは、それでもやっぱりこれが嘘つきの手かどうかは分からないということだ。<br />
<br />
カジマナは、彼女の中の現実世界で頑なに自分を崇拝して生きている。こちらから見たらとても歪んだ世界に見えても、手のひらがその人から切り離せないように、その人の真実はその人のものでしかない。彼女は自己に誠実に生きる正直者であり、世間を嘲笑うとんだ嘘つきでもある。その二つの世界はパラレルワールドみたいに同時に存在しながら、決して交わらない。<br />
<br />
冒頭に述べた正直者の手だって 、「頑固で気が利かなくてなんでもずけずけ言ってしまう暑苦しい正義感の人」と意地悪く言うことだってできる。<br />
<br />
すべては表裏一体。でも、そのキワには目に見えないくらいの細ーく深い溝があるはずだ。その溝になんとか小指の爪の先でもひっかけて、はがそうとする。自分が歪んでいると思う方の世界を、べろんとはがしてなきものにしてしまいたい。ぜんぜんはがれなくても、はがそうとすることで、小指の先っちょに見えることがあるような気もする。<br />
<br />
そんな気持ちで自分の手のひらを眺めてみる。私はパラレルワールドのどちら側の人間なんだろう?てよみhttp://www.blogger.com/profile/13418012544538145754noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-4649659134241655859.post-76328419670842819232017-06-03T02:22:00.001+09:002018-05-19T15:19:18.761+09:00くうをつかむ手 〜N・S・ハルシャ展—チャーミングな旅—から考えたこと〜人の背丈ほどある円状に、あらゆるポーズをした手のドローイングがぎっしりと埋め尽くされ、はじまりもおわりもなく空虚な穴を囲んでいる。<br />
<br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjclIPl12b7UH5ll2gYhlwZxHvxX2qJjybfB_RLIilvlCxFr0EcNROt4pnJa5vhqOeeuLNRdu1YDZ5hM0lMzVg8j_McM6umFU3pC1dlpSFZcIk-LCvEpXzUqN4KqVXuljbhlBP3ZYy4-DbT/s1600/IMG_5791.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1600" data-original-width="1600" height="400" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjclIPl12b7UH5ll2gYhlwZxHvxX2qJjybfB_RLIilvlCxFr0EcNROt4pnJa5vhqOeeuLNRdu1YDZ5hM0lMzVg8j_McM6umFU3pC1dlpSFZcIk-LCvEpXzUqN4KqVXuljbhlBP3ZYy4-DbT/s400/IMG_5791.JPG" width="400" /></a></div>
<br />
<div style="text-align: center;">
《1,000の手と空(くう)》 (1995年)</div>
<br />
<br />
1000もある手はヒンドゥー教のガネーシャ(象の顔をして4本の腕を持つ神)の手から着想したそうだけど、このインドの美術家 N・S・ハルシャの作品を目の前にしてすぐに思い浮かんだのは、日本の神話の古事記における「中空構造」についてだ。<br />
<br />
「中空構造」は心理学者の河合隼雄さんが唱えたもので、著書の『中空構造日本の深層』に詳しく、この本を何度読んでも脳みそがでろでろになってしまう私が説明できる立場ではないのを承知で、すごーーっくざっくり解説すると、、、<br />
<br />
古事記に出てくる神様はだいたい3人組で、山幸と海幸なんかが有名どころだけど、そのあいだに、なんにも活躍することもなく、なんかいるだけ〜というナゾな神様が必ずいる。なんにもしてないので物語にもほとんど語られていない。しかし、そんな力を持たない空虚な神様が真ん中にいることで、あとの2神の敵対関係が成り立たないようになっている、、、、というのが中空構造のざっくりとしたところ。<br />
<br />
このことから、中心に曖昧な空(くう)がある構造こそが日本人の心のプロトタイプなんじゃないかという考察になるんだけど、そんなに難しく考えなくても、私たちはふつうに見えない「空気」を読んだりする民族なわけで、個人の個性の尊重よりも、場の空気の平衡を思わずとろうとしちゃう、そんな心の構造が日本の神話から読み取れますね〜ということ。<br />
<br />
話は少しそれるけど、建築家の藤森照信さんが、人間が持っている 権力、お金、名誉の3欲を分立させた「三欲分立」は、戦後の日本人の大発明と言っていて、そうか!と膝を打った。<br />
<br />
「権力」を持つ政府、「お金」を持つ財界、「名誉」を持つ天皇という構造は、まさしく中空構造に通じている。河合さんの本にも「天皇は第一人者ではあるが、権力者ではない、という不思議な在り様が、日本全体の平和の維持にうまく作用している」とある。このことは反対に、「三欲一致」の状態――財と名誉を持った権力者が統治している国を思い浮かべると、日本のある意味奇妙な平和性が際立って見えてくる。 <br />
<br />
ハルシャはインドの人で、宗教やお国柄からくる感覚はまた日本人とは違うだろうけど、存在するものの真ん中に空(くう)を感じとるところは日本人と似ているのかもしれない。<br />
<br />
そして、存在の真ん中が空(くう)だという構造は、宇宙の広大な空間でも、ひとりの人間の小さな世界でも当てはまるような気がする。もっとも小さな世界と、もっとも大きな世界はよく似ていたりするから。<br />
<br />
<br />
ハルシャの作品に野生動物と人間が同じミールス(南インドの定食のようなもの) を並んで食べている絵がある。<br />
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEg4DlNx5XhcW5fADiWqRe4kYlKuhb1GtopcrDQPpr9U2yfaishezFlZD0Apx1MhyThsofSo9idCAvwbtArBU2NEU_2eaOAZo4_ujuq11ZPzLoSyyelLlgV2QhGaXAsNR2ZhME5sKDHcMMQe/s1600/IMG_5841.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1600" data-original-width="1600" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEg4DlNx5XhcW5fADiWqRe4kYlKuhb1GtopcrDQPpr9U2yfaishezFlZD0Apx1MhyThsofSo9idCAvwbtArBU2NEU_2eaOAZo4_ujuq11ZPzLoSyyelLlgV2QhGaXAsNR2ZhME5sKDHcMMQe/s320/IMG_5841.JPG" width="320" /></a></div>
<br />
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《人間的な未来》 (部分/2011年)</div>
<br />
<br />
これは、「動物も人間と同じように欲望そのままに貪っている社会とは、どのような社会だろうか」という着想から描かれたものだそう。この絵が放つユーモアと悲哀はなんだろう?<br />
<br />
ミールスをおとなしく食べているライオンは、本来、シマウマなんかを襲ってガブリと荒々しく生肉を食べているわけで、その姿こそ「欲望そのまま」ではないのか?と、一瞬思ってはっとした。<br />
<br />
それは欲ではなく本質なんだ。つまり「本能」であり、そこにどんな意味があるかなど、ライオンは考えない。たぶん。<br />
<br />
欲望には意味がつきまとう。人は食事をするときにだって、空腹を満たす以外にいろんな意味を付け加えがちだ。「カラダにいい」なんて意味は大人気だし、食事に付随する価値(インスタ映えするとか!)は、本末転倒にそちらの方が重要視されることもある。そしてそんな意味たちは、私たちを満足もさせるが疲れさせもする。どこまでいっても永遠に広がる意味の海に足をとられて溺れそうになることもある。<br />
<br />
中空構造である人間にも真ん中に曖昧な、それでいて確固たる空があるなら、意味ばかりで疲れてしまったらそこに逃げ込めばいい、と思う。私の場合、それはたくさん寝ることなんだけど、ひたすら山を登るとか、口の中の飴がじわじわ溶けていくことに集中するとか、とにかく欲望ではないところで生きている状態にひたるといいんじゃないか?(これはまだ考え続けていることだけど)<br />
<br />
ちなみに、空(くう)にひたる自分の無意味性について落ち込む必要は全くない。もともと生きることに意味なんてないと言うと、皮肉好きのニヒリストのようだけど、けっしてそういうことではなくて、意味のないことの豊かさが自分のなかの空(くう)にゆらゆらとオリのように漂っているイメージ。矛盾しているようだけど、なんにもないこと、分からないことの豊穣さってきっとある。<br />
<br />
手のひらでいえば、薄くてもやーっとした運命線みたいなものかもしれない。曖昧なその線には、どうにでも描くことができる未来が無限に秘められている。<br />
<br />
<br />
1000の手の絵をよく見ると、どの手のひらにも中にやわらかいおもちみたいなものが描かれている。これも空(くう)を表しているのかな?<br />
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhmHGy3YK0j5xKPi8p-4qikaPq8AtUdLbQoN8gY_QKnQ_cr4oPb6-xMNEzI_xL0fp57QAxeqOXuDcifzxkAyCrpnm0_UAzLSRadldpr6BQ1rNl_9JR89i9zFrBXuLAnscfn_swiPgxR2Ous/s1600/IMG_5794.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1600" data-original-width="1600" height="400" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhmHGy3YK0j5xKPi8p-4qikaPq8AtUdLbQoN8gY_QKnQ_cr4oPb6-xMNEzI_xL0fp57QAxeqOXuDcifzxkAyCrpnm0_UAzLSRadldpr6BQ1rNl_9JR89i9zFrBXuLAnscfn_swiPgxR2Ous/s400/IMG_5794.JPG" width="400" /></a></div>
<br />
<br />
手のひらに空(くう)を!<br />
<br />
それはなんか希望のようなものに似ている気がする。<br />
<br />
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</div>
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<br />
<span style="font-size: x-small;">*藤森照信さんのことばは「ほぼ日」から引用させていただきました。</span><br />
<a href="http://www.1101.com/tokyo/fujimori/2017-04-14.html" target="_blank"><span style="font-size: x-small;"> http://www.1101.com/tokyo/fujimori/2017-04-14.html</span></a><br />
<br />
<br />
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<br />てよみhttp://www.blogger.com/profile/13418012544538145754noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-4649659134241655859.post-20402266594366587732017-05-04T17:04:00.000+09:002018-05-19T15:06:45.340+09:00のびのびの手小3の男の子、Uくんの手のひら。両手とも見事なマスカケ線プラス頭脳線。 <br />
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<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjqQCOnA3jr_oCysic4G9ZwGqYcOdQBDG4GAo-toxbVobUJ1wgiFGPdPRGkt_0wZcs0r15zokFApL0nkU-fEVedJCzhfN42m54ej35hSXHJvAIsGsSpcOcSvPCsjqukIW7MLg_vnYsI7RFZ/s1600/IMG_5624.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjqQCOnA3jr_oCysic4G9ZwGqYcOdQBDG4GAo-toxbVobUJ1wgiFGPdPRGkt_0wZcs0r15zokFApL0nkU-fEVedJCzhfN42m54ej35hSXHJvAIsGsSpcOcSvPCsjqukIW7MLg_vnYsI7RFZ/s320/IMG_5624.JPG" width="270" /></a></div>
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
</div>
<br />
<br />
<div>
マスカケ線は、頭脳線と感情線が繋がったもので手のひらにまさに「て」と書いたような相。よく芸能人に多いと言われるが、非凡な才能の持ち主とよみとれる。<br />
<br />
Uくんはいかにもクラスで目立ってそうな活発でオシャレな男の子で、すでに芽生えているそのスターぶりに大きく納得。短めの指に張り出した生命線も加わって、フットワークが軽くエネルギッシュでやんちゃがすぎるところもありそうだけど、仲間から信頼される明るいリーダーって感じだ。</div>
<div>
<br />
マスカケ線はそれ自体が感情線と頭脳線なので、Uくんみたいにさらに頭脳線があるということは頭脳線が二本あることになる。Uくんに思わず「キミは天才だね!」と調子よく言ってしまったが、こういう人は1つの考えにとらわれないスケールのある発想をしたりする。以前に見せてもらった、いつもありそうでなかったものをつくり出している著名なデザイナーさんの手もそうだった。<br />
<br />
なんだかほめてばかりだけど、非凡な才能があるってことはそれはそれで苦労することも多い。どうしたって普通ではいられらないわけで、出る杭を嫌う世の中では生きづらい。だからって平凡に暮らそうとすると何かと無理が生じやすく、せっかくの才能が不発のまましょげちゃう人もいる。<br />
<br />
私の母はよくマスカケのことを「イチかバチか相」なんて言っていたけど、この相の人は良くも悪くも規格外な生き方が向いているらしい。のびのびとその才能を発揮するのに、“コンプライアンス”なんて言葉が日常語化した、いまの日本は窮屈そうだ。<br />
<br />
ただ、こういう健やかに自分本位(自分勝手とは違う)で自由な人がいると、森林浴みたいな効果で、まわりものびのびとしてくるもの。別にマスカケな人じゃなくても、公園でかけずりまわる小さい子なんかもそうだ。その存在自体が「自然」なのである。相手が自然なだけに翻弄されることもあるが、凝り固まったオトナの世界に風を送り込んでくれる貴重な存在だ。</div>
<div>
<br />
そういえば、チンパンジーの手もほとんどマスカケらしい。マスカケ線は感情線と頭脳線を分離させていない。つまり、感じることと考えることが一体だから本音しかない。お世辞も言えないし、建前もない。<br />
<br />
そう考えると、人間社会で生きていくのはちょっと大変だ。もしかして、この社会を築く過程で、人間の頭脳線と感情線は分かれていったんだろうか? 逆にチンパンジーからしてみれば、人間の生き方の方がまどろこしくて遅れてみえるのかもしれない。<br />
<br />
かつて誰もが持っていた、のびのびとした自然を思い出させてくれるたくましきマスカケ線の人よ! そんなあなたたちが生きやすい世の中であってほしいと、Uくんの手のひらにひっそりと祈る。<br />
<br />
<br /></div>
てよみhttp://www.blogger.com/profile/13418012544538145754noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-4649659134241655859.post-33172282626970783662016-11-16T15:01:00.000+09:002016-11-16T15:36:31.558+09:00まゆげそるか?そらないか?今朝、起き抜けに、先日仕事で会った男性の「何か面白いことないですかね~」というつぶやきが脳裏をよぎり、眉毛を剃ってみようと思いついた。<br />
<br />
前髪に隠れているから剃ったって普通には気付かれはしない。で、ひょっと前髪を持ち上げたら眉毛がない……! なんて面白いんだろう! 今度あの人に会ったら見せてあげなくちゃ。朝から自分の思いつきに眠気もすっ飛ぶ。<br />
<br />
さっそく、顔用の小さいカミソリを用意して、石鹸を泡立て眉毛にふんわりのせる。カミソリを手にし、右眉の目尻側の端から2ミリほどをジョリ。そこでふと手が止まる。<br />
<br />
しかし本当に眉毛がなくてもいいものか? 前髪で隠れているからって風が吹いたら? いや、出かけるときは帽子で前髪を固定していれば大丈夫。とはいえ温泉とかいったらどうよ? いや、基本湯気でけむってるし誰も他人の顔なんて見ちゃいないって! <br />
<br />
……そんな問答をしているあいだに目に石鹸水が入ってきて急遽中断。顔を洗ってカードに聞いてみることにする。<br />
<br />
<br />
【ヒーローダーク】 <br />
★あせってはいけません。過信しているので、客観的に見つめ直して。<br />
<br />
<br />
よくぞ止めてくれた!と6時間経ったいま思う。眉毛がないからって面白くなるかは微妙なラインだ。引かれてしまわないとも限らない。<br />
<br />
「無意識のうちに予期しているもっとも可能性の高い「未来」を知る」ことができるらしいユングタロットは、わかっちゃいたけどやっちゃいがちなアホ行為の抑止力にもなるようだ。突発的に行動したがるくせに優柔不断な私にとって、このカードの存在はありがたい。<br />
<br />
とはいえ、また突発的にカミソリを手にする朝がこないとも限らないし、GOサイン(プエルライトあたりだろうか)出たらそのときこそは!と思っている。<br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgNRFL-ZYcvC6G_-HDqQaCmpLaMPlAoB_J3GHieUE9cARtAQJz7Qv_jDyAWoNsSfmtEPfw2v6B5HSI8RghEk9g2uZw85yjwcwDdiDzN9c67B2RxTZjxJHMY-pLILbln0SmG3D1Jp71fsuS7/s1600/FullSizeRender.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgNRFL-ZYcvC6G_-HDqQaCmpLaMPlAoB_J3GHieUE9cARtAQJz7Qv_jDyAWoNsSfmtEPfw2v6B5HSI8RghEk9g2uZw85yjwcwDdiDzN9c67B2RxTZjxJHMY-pLILbln0SmG3D1Jp71fsuS7/s320/FullSizeRender.jpg" width="320" /></a></div>
てよみhttp://www.blogger.com/profile/13418012544538145754noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-4649659134241655859.post-50732410092146763472016-08-05T16:27:00.002+09:002018-05-19T15:02:50.403+09:00退院は月曜日に(はじめてのユング・タロット)前回ブログの「やばい」をとる手術から一週間ちょい。自分で言うのもナンですが、まじめに患者業に勤しんだせいか周囲もびっくりするくらい高速に回復していき、あとは検査をしたら退院オッケーの運びとなった。退院日は自分で決めていいということだったので、検査後すぐで都合がよい日曜にするか、いやいや少し余裕をもって月曜にするかを迷いに迷い、入院中に暇だろうし覚えてみようかなと持ち込んだ「ユング・タロット」をやってみることにした。<br />
<br />
退院するなら一日でも早い方がいいと思われるかもしれないが、同じ病室で仲良くしてくれた日曜退院のおばあちゃんを病室から見送りたい、という気持ちがなんとなくあったり、隣のベッドのSさんとのキャンプの夜にひそひそと交わすような心弾むおしゃべりの締めくくりを一日でも伸ばしたい、なんていう気持ちもあったりした。しかもここは暑くも寒くもなく、9階の窓からは東京タワーとスカイツリーと刻々と変わる東京の夏の空が見渡せて、なんとも快適なのである。仕事も生活の細々したことも忘れ、子どもの頃のようにただ日々を生きることに徹することができた貴重な夏の締めくくりをどうするか、自分としてはそこそこ切実だった。<br />
<br />
しかし、模範的患者気取りの自分が、看護師さんにお世話にならずとももう生活できるというのに一日でも居座るなんて甘えすぎだろ、と戒める。<br />
<br />
というわけで日曜か月曜で迷っていた。<br />
<br />
「退院を月曜にしようと思うのですがどうでしょうか?」と問うたユング・タロットのこたえは「マザー・ライト」。 テキストによると「自信を持って大丈夫。大船に乗ったつもりで動きましょう。自然と、周りから助けを得られるはず」とある。そうかそうか、そんなにギスギスまじめに考えなくてもゆったりと月曜退院でいいんだな、と合点した。<br />
<br />
それでもその日の夜、寝際にまたもしつこく悶々と考えだし(優柔不断なのです)、やっぱり甘えちゃいけないよな、一日でも早く自立せねば!と自戒。翌朝、ユング・タロットのお告げを覆し、意を決して日曜退院の旨を看護師に伝える。<br />
<br />
伝えたところで、看護師から最後の検査日の報告があり、私が医師から聞いていたより2日遅れとなっている。検査に使う機械の予約がとれなくて遅れたという。それじゃあ日曜退院は厳しいよねと。。。<br />
<br />
結局、退院日は月曜となった。<br />
<br />
ユング・タロットのテキストには「無意識のうちに予期している、もっとも可能性の高い「未来」を知ることができる」と書いてある。人はこれから起こることについて無意識になんとなく分かっているもので、また実際にそうなるように無意識のうちに今の自分を動かしていたりする。その無意識を意識化するのがこのカードらしい。 <br />
<br />
無意識を意識するなんてちょっと怖い気もするが、テキストには「もちろん、あなたが「今」を変えていくことで、未来を変えていくことができます」ともある。<br />
<br />
それならてよみも同じだと思う。手のひらには「いまの自分」の現在過去未来があり、「いまの自分」が変わればそれらも呼応して変わるのだ。無意識だろうと意識的だろうと、いまこれからを変えていくのは自分次第。<br />
<br />
はじめてのタロットカードの効力にややおののきながらも、その奥深さを実感(それと自分のしょーもない優柔不断ぶりも実感)。これから少しずつ触れてみようと思う。<br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgHvrDsqdpMolWs6HW0PTpXJg5wlIHgWc46nWq7NorXc3zw9QeZ2mXb-mdoXgyOcSZ3otSrQ1xmRRQU0L96gpt_cSbq2OHdAMUtyzveyH2jLeapvEZdpixnvq3JnU3YuccICOp7oCx3HOKe/s1600/IMG_3453.JPG" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgHvrDsqdpMolWs6HW0PTpXJg5wlIHgWc46nWq7NorXc3zw9QeZ2mXb-mdoXgyOcSZ3otSrQ1xmRRQU0L96gpt_cSbq2OHdAMUtyzveyH2jLeapvEZdpixnvq3JnU3YuccICOp7oCx3HOKe/s320/IMG_3453.JPG" width="320" /></a></div>
<br />
<br />
<br />
<br />てよみhttp://www.blogger.com/profile/13418012544538145754noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-4649659134241655859.post-70701394218111397522016-07-18T15:06:00.000+09:002018-05-19T14:59:21.976+09:00キレギレの我がケンコーについて<div style="text-align: left;">
<span style="font-size: small;">健康線はその線がなければ「健康だね!」という線である。</span></div>
<div style="text-align: left;">
</div>
<div style="text-align: left;">
<span style="font-size: small;">「</span><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;">健康線」という</span>ネーミングからするとあると良さそうな雰囲気なのに、ないことで良しとするちょっと不思議な線だ。もし線が出ていても、まっすぐ伸びていたら「ふつう」ということでとりあえずは問題ないとみる。 </span></div>
<div style="text-align: left;">
<br />
<span style="font-size: small;">問題になるのは線の流れがクネクネしたり島ができたりキレギレに乱れたりしたとき。そういうときは体調を崩しやすいときなので気をつけてくださいね、となる。 </span></div>
<div style="text-align: left;">
<br />
<span style="font-size: small;">そうはいってもあんまり見かける線ではないので、自分としてもそれほど注目していなかった。</span></div>
<div style="text-align: left;">
<br /></div>
<div style="text-align: left;">
<span style="font-size: small;">そんな私が2016年6月5日に自分の健康線の乱れを発見している(ツイッターに記録があるから日にちも確か)</span><span style="font-size: small;">。</span></div>
<div style="text-align: left;">
<a href="https://twitter.com/te_yo_mi/status/739694773821280256"><span style="font-size: small;">https://twitter.com/te_yo_mi/status/739694773821280256</span></a></div>
<div style="text-align: left;">
<br /></div>
<div style="text-align: left;">
<span style="font-size: small;">ワタクシ、健康バカ一直線で生きてきたせいか自分の不調への感知機能が鈍い自覚があり、このキレギレの健康線をみるまでそこまでの実感がなかった。ただこのときは「ちょっとマジやばいかもな〜」と、雷が鳴る直前の空を見上げたときみたいに、心ざわめいた。</span></div>
<div style="text-align: left;">
<br /></div>
<div style="text-align: left;">
<span style="font-size: small;">結論的には、キレギレの健康線を発見した2日後に訪れた病院で「やばいかもな〜」の「かもな〜」が取れ、そのまま「やばい」は順調に育っていき、今月末に入院&手術して治すことになった。</span></div>
<div style="text-align: left;">
<span style="font-size: small;"><br />
</span></div>
<div style="text-align: left;">
<span style="font-size: small;">もちろん、健康線を含め手相でそこまでの展開が分かるわけではない。せいぜい調子が悪いな〜ってことを客観視できるだけだ。 手相で不調が分かったところで治せるわけではないし。うちの母も占いで健康について詰め寄って聞かれると、「お医者さんに聞いてください」なんて言っているらしい。餅は餅屋で。</span></div>
<div style="text-align: left;">
<br /></div>
<div style="text-align: left;">
<span style="font-size: small;">ただ、ずっと自分の手を眺めてきた、手ウォッチャーとしては、今回の合致はすごい!</span><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;">すごいやん!</span>っていう感動すらある。私の手って正直なんだなー!と。</span></div>
<div style="text-align: left;">
<br />
<span style="font-size: small;">よろこんでいる場合ではないが、そういった実感を積み重ねると手のひらへの信頼も増すってものです。</span><br />
<br /></div>
<div style="text-align: left;">
</div>
<div style="text-align: left;">
</div>
<div style="text-align: left;">
</div>
<div style="text-align: left;">
<span style="font-size: small;">せっかく入院して時間ができるのだから、てよみについてもいろいろ考えてみようと思う。とりあえず医者や看護師さんに本当にお助け十字が多いのか!?てよみスパイしてみるつもり。このブログももっと気軽にアップできればと。</span></div>
<div style="text-align: left;">
</div>
<div style="text-align: left;">
</div>
<div style="text-align: left;">
<br />
<br />
<span style="font-size: x-small;">*ちなみに手術したら完治できる病気なのでご心配はいりません。「やばい」ところを取り除けば、あとは健康そのものと言われました。原因が分かっているってラッキーだなと思います。世の中、原因の分からない不調が多いもの。。。</span><br />
<br />
<br /></div>
<div style="text-align: left;">
</div>
<div style="text-align: left;">
</div>
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjMN8Vz1y96N5gXht5h2ojFft2MCB__RkwY_KIQCCFL7N3AOi2rpYIJrnL7vID1Z1bCDSx_y-Bgj3LZnKs17yv__7bSEP21eWiNEGDBVN-LVVt4B-h6m6JJHHhqeUpol9aH8jDF_OIzRok-/s1600/teyomitecho003.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjMN8Vz1y96N5gXht5h2ojFft2MCB__RkwY_KIQCCFL7N3AOi2rpYIJrnL7vID1Z1bCDSx_y-Bgj3LZnKs17yv__7bSEP21eWiNEGDBVN-LVVt4B-h6m6JJHHhqeUpol9aH8jDF_OIzRok-/s320/teyomitecho003.jpg" width="320" /></a></div>
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
</div>
<div style="text-align: left;">
</div>
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
</div>
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
</div>
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
</div>
てよみhttp://www.blogger.com/profile/13418012544538145754noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-4649659134241655859.post-68909835185415392312016-01-30T00:49:00.001+09:002018-05-19T14:55:56.253+09:0029歳の女の子たち<span style="font-size: small;"> 先日、知人のパーティで、同級生グループという29歳の女の子たちの手のひらを立て続けによむことになった。</span><br />
<span style="font-size: small;"><br /></span>
<span style="font-size: small;"> 好きな服を着て、お酒を飲んで、おしゃべりに暇のない女の子たちは、みんな同じ芸術系大学の出身らしく、月丘(クリエイティブの意味をもつ)がぷにぷにと豊か。手のひらのツヤもよく、それぞれにキラキラと弾んでみえた。</span><br />
<span style="font-size: small;"><br /></span>
<span style="font-size: small;"> しかし何人かみたところで、右手の運命線のちょうど今ごろ(29歳)のあたりで、それまで続いていた線がいったん薄くなっている人が多いことに気がついた。</span><br />
<span style="font-size: small;"><br /></span>
<span style="font-size: small;"> 右手の運命線からは、主にその人の外の顔=仕事のことなどをよむ。社会に向かって自分がどんな道を歩むのか(我が道一本なのか、あれこれ何足もわらじを履くのか)、どんな仕事が向いているかなんかをその線の数や流れでよみとっていく。</span><br />
<span style="font-size: small;"><br /></span>
<span style="font-size: small;"> 仕事の線が薄くなっていると言うと「やる気がないんじゃないか?」とかネガティブな意味に捉えがちだけどそれは違う。運命線が薄いというのは、あらゆる可能性が秘められてるということ。そんなときは、なんでもできるときでもある。「確固たる自分」という邪魔するものがない分、いろんなものに染まることができる。自分では予測できない経験をたくさん積めるときでもあるのだ。</span><br />
<span style="font-size: small;"><br /></span>
<span style="font-size: small;"> 西洋占星術に「サターン・リターン」というのがあるらしい。土星が29年かけて産まれたときと同じ位置に戻ってくるというもので、人生の進路をもう一度見直すような、ちょっとした試練のときという。私は</span><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;">西洋占星術</span>については門外漢なのでサターン・リターンの真の意味は知らないが、30を手前に一度人生を見直す試練がくるなんて、よくできているように思う。</span><br />
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<span style="font-size: small;"> 自力でずんずんと歩んできた人も、</span><span style="font-size: small;"><span style="font-size: small;">人からの恩恵を受けてぬくぬくっときた人も、</span>子ども時代を含めた30年弱の道のりを自分で客観的に把握するのはまだ難しい(というか、いくつになっても人生なんて分かるもんじゃないんだろうけど)。ただ、どうであれ、もう「大人」ってことからは逃れられなくなる年頃でもある。世間からはすっかり「できあがってる」人物として扱われる。そこにまだ、居心地の悪さや自信のなさが残っているのに。</span><br />
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<span style="font-size: small;">「大人」なんて自分の頭上にいるしっかりした誰かのことだと思っていたら、いつのまにか当事者にされている。いつかの未来が今日の自分なのだ。時は時に理不尽である。</span><br />
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<span style="font-size: small;"> でもまあ、焦らなくてもいい。それに別に29歳でなくても何歳でもいいのだ。自分がいまどんな舵をとって進んでるのか分からなくなったら、手を止めて風向きをよめばいい。漕ぐのに疲れたんだったら、しばらく漂って流されるのも悪くない。試練とは、なにか歯を食いしばって超えるものとも限らないのではないか。。。</span><br />
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<span style="font-size: small;"> タモリさんの名言にもあります。「流すより流されろ」って。これは案外簡単なことではない。自分が主体であることをよしとする世の中で、流されることのなんとエネルギーのいることか!(ちなみにそんなタモリさんも30歳でそれまでの仕事を辞めて「オレはお笑いしかないんじゃないか」と上京している)</span><br />
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<span style="font-size: small;"> 運命線が薄いときとはやっぱり試練のときらしい。ゆるゆると流れに任せて超えていこう。流れ着いた先に、また新たな運命線が伸びていく。</span><br />
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<span style="font-size: small;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjY1pB4rDborNcU5SdnPMXCKMAY5iTgbToNSCTSX-dmUunib4xhFT7HMRleRAemtk18eHSTNCuzVUrRyokmGzfxeKmp3q8iGhEgi8ZeN1mMqLCpvr9uUtNwfSAKjMSKQHrVRRsjPucRdCPI/s1600/teyomitecho002.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="237" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjY1pB4rDborNcU5SdnPMXCKMAY5iTgbToNSCTSX-dmUunib4xhFT7HMRleRAemtk18eHSTNCuzVUrRyokmGzfxeKmp3q8iGhEgi8ZeN1mMqLCpvr9uUtNwfSAKjMSKQHrVRRsjPucRdCPI/s320/teyomitecho002.jpg" width="320" /></a></span></div>
てよみhttp://www.blogger.com/profile/13418012544538145754noreply@blogger.com