2022年5月11日水曜日

KAWAII TAROT ふりかえり1 〜猫編

 旅で訪れたインドの本屋さんで偶然みつけた「KAWAII TAROT」。その名のとおり絵柄がかわいくてしばらくながめるだけだったけど、コロナでおうち時間が増えた2021年7月頃、タロット占いの勉強でもしてみようと、一日一枚めくり、自分なりにカードの意訳をする「#今日のKAWAIITAROT」をSNSではじめてみることにした。


 毎朝カードをめくり、その意味を調べ、思いついたことを140文字でおさまるようにツイッターのフォーマットに書きこみ、カードの写真をコラージュしてテキストと一緒にインスタのストーリーにあげる。これをタロットカード78枚×3ターン=234回分終えたいま、よく出てきたモチーフ別にちょっとふりかえってみようと思う。主なモチーフは「猫」「食」「生活」「タモリさん」など。

 なんかいいこと言ってそうで、その実なんにも役にたたず、でもよむと、ちょっとくすっとしたり、ほっとしたりできたらいいな。そんな着地点をめざしていたけど、考えすぎて迷走したものもけっこうあった。それでもときどき誰かに「いいね!」ってされると、伝わったことがうれしくて小躍りしたり。

 ちなみに、私の意訳はタロットの本来の意味から飛躍しているものがほとんどです。俳句でいう“お題から発想を飛ばす”という感じで考えていたので、タロット占いとしては破綻していることをご了承のうえおよみください。

[R]=Reversed(逆位置のこと)

 

◎猫編

King of Swords
ダルい、ねむい、生きるのしんどい。それはみんな8月の終わりのヤツのせいです。ヤツは理不尽にからんできますが、猫たちを見習ってうす目で傍観するがよし。それでもしつこくきたら、ニャアニャア当たり散らして逃げましょう。けしてまともに相手にしてはいけません。
0831.2021

Two of Pentacles
陽だまりにねころぶ猫はまるで無力のようですが、生きていることの愛おしさを身をもって証明しています。そもそもすべての生命は、地球上の電子の流れを効率化しているという点において無力ではいられないのです。堂々とゴロゴロぼんやりしていいのです。
1028.2021

Moon [R]
世の中は謎に満ちていて本当に確かなことなどほんの少しなものです。香箱座りの猫の足はしびれないのか? それは猫のみぞ知るところですが、謎は謎のままでも猫への親しみは確かにある。すべて分からないからこそ、たまらなく愛おしく、尊いのかもしれません。
1125.2021

Ace of Cups
猫は幸福を知りません。自分の感覚を信頼し、考えなくても心地よい場所を知っている、猫そのものが幸福だからです。幸福を求め生きている人間は、不安から逃れることはできません。ただ、猫と向き合うひとときだけ、不安のない世界に触れることができます。
#猫の日  0222.2022

Two of Swords [R]
シュレティンガーの猫は箱を開けなければ死んだことにはなりません。しかし、いま私が箱の中に猫がいることを知っている現実をなかったことにはもうできないのです。目をそらさずに現実と向き合うことは、箱の中の猫のあらゆる可能性と共に生きることでもあります。
0305.2022

King of Cups
カリカリを食べる猫を見て微笑む人は、自分が猫にごはんを与えていると思い、一方、猫は、ごはんを与える充実感を人に与えています。猫にとってのカリカリと、人にとっての猫の存在は、相互にギフトですが、与えたという自覚があるだけ人は、猫の手のひらの上なのです。
0311.2022

Four of Swords
パジャマからパジャマに着がえる日があってもいいのです。猫によると、雨の日は低気圧にまかせてまったり何もしないのが正解です。努力も生産性もなく、ただ生きているだけでじゅうぶんだということを、身をもって証明してくれる猫に感謝して、また眠りにつきましょう。
0424.2022


◎ふりかえり

 生きているだけでじゅうぶんだということ。ただ、生きているだけで面倒なことはたくさんあるのだから、そのうえ(好きでもないことに)努力なんてしなくていい。

 全存在の全肯定。

 猫から学ぶことは多くあるけど、すべてこれがベースになっている。生きてさえいれば、人生さぼっていいし、何もしなくてもいい。遅く起きた日の言い訳も猫に委ねられる。

 考えだすとややこしくなる利他性についても猫に頼ってみた。 与えるという自意識がある限り利他は成立せず、すべて裏返って利己となる。これが自意識ある人間のジレンマだ。

 しかし、猫はいいことをしようなんて考えないので(おそらく)、つねに利他的な存在といえる。猫にカリカリを与える人間の自己満足、その利己性についても猫は問うたりしない。ほんとうの利他をおこなうことがむずかしい人間が、猫を見てやすらぐ理由はそこにあるのではないか。

 幸福についても猫の存在は大きなヒントとなる。猫によると「幸せになる(してあげる)」なんて考えは成立しない。幸せとは状態であり、目指すものではないからだ。“おいしい”も“うれしい”も“愛おしい”も日々うつろい、偶然性を多くはらんでいる。理性ある人間はよりよい状態=幸福を目指すことはできるけど、そうして自分がコントロールしようとすることで不安も生まれる。

 晴れの日も、雨の日も、野良でも、人に飼われても、それなりに心地よい場所をみつけてゴロゴロし、世の中と折り合いをつけながらニャアニャアと生きていく。そんな猫の存在そのものが、幸せのありかたを体現しているように思えてならない。猫のあり方を完全にまねすることはできなくても、その尻尾を追いかけていたいと思う。

 シュレディンガーの猫のことを考えたときは、ちょうど彼の地で戦争が始まった頃だった。現実とは思えない光景を映しだすテレビは、まさにシュレディンガーの猫が入っている箱のように思えた。生きていることも死んでいることも重なるように閉じ込められた箱。そんな箱の前に無力な自分は、せめてあらゆる可能性から目をそらさないでいたい。

 1つ、猫から学ぶことでずっと逡巡することがある。それは「距離をつめない」という姿勢についてだ。距離をつめなければ猫たちの生活をおびやかすこともなく、お互いに良好な関係を長期的に保つことができる。それでも、そのふわふわに手を伸ばし温度を感じたいという己の衝動は否めない。愛しさと尊さのはざまでいつも尻込みする私は、おそらくこの先も猫を飼うことはないだろう。ただ、近くにいてほしいと願う。