2017年6月21日水曜日

嘘つきの手(BUTTER を読んで)


手のひらをみただけでその人が嘘つきかどうか分かるかといえば、分からない。でも逆に「嘘がつけないないまっ正直な人」の手は、わりとくっきりイメージできる。

――肉厚で弾力のある手のひらは心のどっしりとした丈夫さを、そこから養分を吸い上げて勢いよく這う根のような生命線と感情線と頭脳線は満ち満ちたエネルギーで見て感じて自分で考え抜く力を、やや小指側の手首の方から斜めに立ち上がる力強い運命線は子どもの頃から許されてのびのびと暮らしてきた人特有の大らかさを示している。感情線の先端は指の付け根に届かない開け離れた心のドア。きっと、薬指の下の丘にはくっきりひと筋の太陽線が伸びている。文字通り、周囲を太陽の光のように明るく照らす人だ。


『BUTTER』柚木麻子・著(新潮社)の物語は、2009年に発覚した首都圏連続不審死事件がモチーフとなっている。この本を取り憑かれるように一気に読んで、実際にいまは死刑囚となった木嶋佳苗をモデルにした登場人物・梶井真奈子<カジマナ>はどんな手をしているかな?と、ふと考えた。


カジマナは徹底して見たいものしか見ず、他者から受けたダメージは独自の美学で練り上げた脚本に書き変え、好きな時に好きなものを好きなだけ食べ、食べたくないものは絶対に口にしない。自分の容姿が世間から嘲笑されていようと、そんなことは自分の価値観に当てはまらないと一蹴する。女はみんな自分より劣ったところがある同性といたがるもので、自分のように選ばれし人間といると苦しくなるものなのだと、激しく主張する。

尊大に自己肯定するカジマナに世間は呆気にとられ、苛立ち、目が離せなくなる。

この物語の主人公・女性記者の里佳のようにカジマナに何度も接していると、彼女が本当は罪無き3人の男性を騙し殺めた卑劣な悪人などではなく、全ての女性が真底願いつつも叶えられない姿を体現した孤高の救世主のようにすら思えてくる。

彼女は世間の価値観に惑わされない深い知性を鎧に消費されたフェミニズムの矛盾点を暴き、自己の哲学に揺るぎない忠誠心をもって生きている。私は私。そんな奔放な態度に崇高ささえ感じ、憧れにも似たものを覚えてしまう。 自分に甘すぎるその容姿ですら「もっと自分を許してあげて」とこちらに語りかけてくるようだ。

しかし、そんな堂々としたカジマナの言動には、ずっと不気味な通奏低音が流れている。「ダイエットほど無意味でくだらなく、知性とかけはなれた行為はありません」と世の女性を奮い立たせるような毅然とした発言の数々とは裏腹に、どんよりとまとわりつく不可解さ。その根っこはどこにあるのか?

それは100%の自己肯定感だ。

拘置所のアクリル板越しのカジマナが里佳に向かって「あなたはもっと自分を好きになるべきなんじゃない?」と語りかける場面がある。自己評価が低すぎるから自分をすり減らしているのだと。

自己評価の低さ。これは私自身よく感じることでもあり、てよみをしていて相手に思うときも多々ある。あなたが思うほどあなたはぜんぜんダメではないしむしろすごいよ!!!と、言葉にするとただのお調子取りのように聞こえてしまうが、そんな思いが先に溢れすぎてうまく伝えられないときもよくある。

自分が好きになれず、コンプレックスで溺れ死にそうになる。そんな思いは多かれ少なかれ誰もが抱いたことがあるんじゃないか。私たちが自己肯定しづらい理由を考えだすと話が広がりすぎるのでここではやめるけど、それでも不安を奥歯に噛みしめてなんとか歩いているうちに、自然と獲得した自分への信頼だってある。それはいちいち“自己評価”の台の上に乗せてまじまじと眺めたりはしない種類のものだ。

「女性は誰しも、あなたのように自分を好きになって自信を持って振る舞いたいと思っているけど、それが一番難しいんじゃないか」と問い返す里佳に向かって、「自らの心や体に耳を澄ませて一番食べたいと思うものを好きなだけ食べればいい」と説くカジマナ。

自分自身の身体だけで完ぺきに満たされれば他者を必要としない。だから完全な自己肯定もできる。そして何者にも縛られないからとことん欲望を追求できる。しくみは分かるけど、その獰猛なまでにポジティブな姿はなんといびつなんだろう。

100%の自己肯定とは、他者を切り捨て自分だけの異界に生きること。そんな風に思える。


それで、カジマナはどんな手をしているか妄想してみる。

――ぽっちゃりと白いふくふくとした手のひらは、いたずらっ子のようなわがままさがありながら吸い付くように湿っていて意外に神経質。小指側の手のひらは想像力の雨をたくさん含んだ雲のように重く膨らみ、そこにキレギレの頭脳線が突き刺そうと伸びてきて身勝手なロマンチストぶりを発揮している。感情線と頭脳線を毛羽立った鎖編みの毛糸が横一直線に結び、人を惹きつけるミステリアスな雰囲気にぞんざいな綻びが網目から見え隠れする。急カーブを描く生命線がとり囲む親指の付け根は、つきたてのお餅のように柔らかくぱんぱんで、過剰なバイタリティが今にもぷっくりと弾けそう、、、

カジマナの手のひらを頭の中でじっくりと点検して思うのは、それでもやっぱりこれが嘘つきの手かどうかは分からないということだ。

カジマナは、彼女の中の現実世界で頑なに自分を崇拝して生きている。こちらから見たらとても歪んだ世界に見えても、手のひらがその人から切り離せないように、その人の真実はその人のものでしかない。彼女は自己に誠実に生きる正直者であり、世間を嘲笑うとんだ嘘つきでもある。その二つの世界はパラレルワールドみたいに同時に存在しながら、決して交わらない。

冒頭に述べた正直者の手だって 、「頑固で気が利かなくてなんでもずけずけ言ってしまう暑苦しい正義感の人」と意地悪く言うことだってできる。

すべては表裏一体。でも、そのキワには目に見えないくらいの細ーく深い溝があるはずだ。その溝になんとか小指の爪の先でもひっかけて、はがそうとする。自分が歪んでいると思う方の世界を、べろんとはがしてなきものにしてしまいたい。ぜんぜんはがれなくても、はがそうとすることで、小指の先っちょに見えることがあるような気もする。

そんな気持ちで自分の手のひらを眺めてみる。私はパラレルワールドのどちら側の人間なんだろう?

2017年6月3日土曜日

くうをつかむ手 〜N・S・ハルシャ展—チャーミングな旅—から考えたこと〜

人の背丈ほどある円状に、あらゆるポーズをした手のドローイングがぎっしりと埋め尽くされ、はじまりもおわりもなく空虚な穴を囲んでいる。



《1,000の手と空(くう)》 (1995年)


1000もある手はヒンドゥー教のガネーシャ(象の顔をして4本の腕を持つ神)の手から着想したそうだけど、このインドの美術家 N・S・ハルシャの作品を目の前にしてすぐに思い浮かんだのは、日本の神話の古事記における「中空構造」についてだ。

「中空構造」は心理学者の河合隼雄さんが唱えたもので、著書の『中空構造日本の深層』に詳しく、この本を何度読んでも脳みそがでろでろになってしまう私が説明できる立場ではないのを承知で、すごーーっくざっくり解説すると、、、

古事記に出てくる神様はだいたい3人組で、山幸と海幸なんかが有名どころだけど、そのあいだに、なんにも活躍することもなく、なんかいるだけ〜というナゾな神様が必ずいる。なんにもしてないので物語にもほとんど語られていない。しかし、そんな力を持たない空虚な神様が真ん中にいることで、あとの2神の敵対関係が成り立たないようになっている、、、、というのが中空構造のざっくりとしたところ。

このことから、中心に曖昧な空(くう)がある構造こそが日本人の心のプロトタイプなんじゃないかという考察になるんだけど、そんなに難しく考えなくても、私たちはふつうに見えない「空気」を読んだりする民族なわけで、個人の個性の尊重よりも、場の空気の平衡を思わずとろうとしちゃう、そんな心の構造が日本の神話から読み取れますね〜ということ。

話は少しそれるけど、建築家の藤森照信さんが、人間が持っている 権力、お金、名誉の3欲を分立させた「三欲分立」は、戦後の日本人の大発明と言っていて、そうか!と膝を打った。

「権力」を持つ政府、「お金」を持つ財界、「名誉」を持つ天皇という構造は、まさしく中空構造に通じている。河合さんの本にも「天皇は第一人者ではあるが、権力者ではない、という不思議な在り様が、日本全体の平和の維持にうまく作用している」とある。このことは反対に、「三欲一致」の状態――財と名誉を持った権力者が統治している国を思い浮かべると、日本のある意味奇妙な平和性が際立って見えてくる。

ハルシャはインドの人で、宗教やお国柄からくる感覚はまた日本人とは違うだろうけど、存在するものの真ん中に空(くう)を感じとるところは日本人と似ているのかもしれない。

そして、存在の真ん中が空(くう)だという構造は、宇宙の広大な空間でも、ひとりの人間の小さな世界でも当てはまるような気がする。もっとも小さな世界と、もっとも大きな世界はよく似ていたりするから。


ハルシャの作品に野生動物と人間が同じミールス(南インドの定食のようなもの) を並んで食べている絵がある。



《人間的な未来》 (部分/2011年)


これは、「動物も人間と同じように欲望そのままに貪っている社会とは、どのような社会だろうか」という着想から描かれたものだそう。この絵が放つユーモアと悲哀はなんだろう?

ミールスをおとなしく食べているライオンは、本来、シマウマなんかを襲ってガブリと荒々しく生肉を食べているわけで、その姿こそ「欲望そのまま」ではないのか?と、一瞬思ってはっとした。

それは欲ではなく本質なんだ。つまり「本能」であり、そこにどんな意味があるかなど、ライオンは考えない。たぶん。

欲望には意味がつきまとう。人は食事をするときにだって、空腹を満たす以外にいろんな意味を付け加えがちだ。「カラダにいい」なんて意味は大人気だし、食事に付随する価値(インスタ映えするとか!)は、本末転倒にそちらの方が重要視されることもある。そしてそんな意味たちは、私たちを満足もさせるが疲れさせもする。どこまでいっても永遠に広がる意味の海に足をとられて溺れそうになることもある。

中空構造である人間にも真ん中に曖昧な、それでいて確固たる空があるなら、意味ばかりで疲れてしまったらそこに逃げ込めばいい、と思う。私の場合、それはたくさん寝ることなんだけど、ひたすら山を登るとか、口の中の飴がじわじわ溶けていくことに集中するとか、とにかく欲望ではないところで生きている状態にひたるといいんじゃないか?(これはまだ考え続けていることだけど)

ちなみに、空(くう)にひたる自分の無意味性について落ち込む必要は全くない。もともと生きることに意味なんてないと言うと、皮肉好きのニヒリストのようだけど、けっしてそういうことではなくて、意味のないことの豊かさが自分のなかの空(くう)にゆらゆらとオリのように漂っているイメージ。矛盾しているようだけど、なんにもないこと、分からないことの豊穣さってきっとある。

手のひらでいえば、薄くてもやーっとした運命線みたいなものかもしれない。曖昧なその線には、どうにでも描くことができる未来が無限に秘められている。


1000の手の絵をよく見ると、どの手のひらにも中にやわらかいおもちみたいなものが描かれている。これも空(くう)を表しているのかな?




手のひらに空(くう)を!

それはなんか希望のようなものに似ている気がする。





*藤森照信さんのことばは「ほぼ日」から引用させていただきました。
 http://www.1101.com/tokyo/fujimori/2017-04-14.html