2023年11月21日火曜日

ラッキー変換

 うちにはたくさんのラッキーアイテムがある。これを書いているスマホも、部屋のカーテンも、毎日履いてるスニーカーも、壁にかけた絵もその額も、ぜんぶラッキーアイテムだ。

 なんでそんなにたくさんあるのかというと、とある占いで「開運の日」に買ったものは全てラッキーアイテムになると知り、それにならって買ったものだらけだからである。

 去年の引っ越しでは、風水でよい方角(吉方位)になるようにタイミングを調べて引っ越す日にちを決めた。引っ越す前のがらんとした部屋には、盛り塩と御神酒でしっかりお清めもした。

 そんなよい方位に引っ越して、きよらかな家でラッキーアイテムにかこまれて暮らしていた私は、今年の夏とつぜんに、ちょっとしんどい病気にかかり2ヶ月ほど入院した。

 悪いところはゴッドハンド先生が丸っと治してくれて、いまはまた元の生活に戻れているけど、右手のしびれと脚のぐらつきという、痛くはないし、生きていくのに大きな不便もないけど、一度気になりだすともやもや気になってしまう後遺症が残った。

 さて、私はラッキーなんだろうか? それとも?

「たくさんよいとされることをしたところで病気になったんじゃ意味なかったじゃん!」と思うのか。

「数あるラッキーアイテムと吉方位のおかげで「それくらい」ですんでラッキー!」と思うのか。

 この手の問いに答えは、ない。

 答えがないのなら自分で答えを決めたらいい。もちろん、私は「ラッキー」の方にした。

 しかし、つらかった経験を力づくでラッキー変換することほど危ないことはない。

「私はツイてる!」と何度となえたところで、胸がきゅうきゅうとして眠れなかったりしたら、心がまだ大丈夫じゃない証拠。なので、ラッキー変換においては慎重にことを運ぼう。

 ムリなくラッキー変換するには、パンをつくるのといっしょで時短してはいけないのだ。

 まずはあるがままに、うじうじ、しくしく、湿度と温もりをあたえて心を発酵させよう。自分が思うよりもずっと傷ついていたり、弱っていることを無視せずに、とことんつきあう時間だ。

 そんな、何もする気がせずに部屋のすみをぼんやり見ているような日が続いても、心は少しずつエネルギーを取り戻していく。大丈夫。

 むくむくと心がふくらんできたところで、誰かに話を聞いてもらったりして「ガス抜き」をするのも大事な工程だ。一人でぱんぱんにふくらみすぎないように。

 話す人がいなかったら、散歩して心を外気にさらしていこう。海に行くなんてとてもいい。そして疲れたらまた、赤ちゃんの頭をなでるようにやさしく心を寝かしつける。ここでベンチタイムだ。

 それは、本人にとっても周囲の人にとっても、なかなかしんどい期間ではあるけど、これらの工程を省いて急いでラッキー変換しようとすると、心はおびえてかたくなってしまう。そうなると、ラッキー変換すること自体に自分が傷ついてしまうから、注意しなくてはいけない。

 そうやって、やっとこさ、つらかった経験をラッキー変換できるときはくる。

 ラッキーはアイテムを集めたところでやってはこない。ただ、「ラッキーでありたい」と願うとき、明日を信じておそるおそる伸ばす手に、そっと勇気をそそいでくれるもの。それがラッキーアイテムの意味なのかもしれない。

 

シルクスクリーンが美しいわが家じまんのラッキー画。
よく見ると魚を捕まえる鳥が悪い顔してていい。


2023年10月5日木曜日

五感選手権(あらためて「てよみ」について)

 五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)のなかでコミュニケーション選手権をしたらどれがいちばん強いだろうか?

 ふと、そんなことを考えた。

 やはり、情報伝達量ぶっちぎりの視覚だろうか?  いやいや、耳元でささやくなど親密ワザもある聴覚なのでは? でも、においの記憶というのはいちばん忘れないというし、おいしいというアプローチに勝る好意もなかなかない。

 しかし、見る、聞く、嗅ぐ、食べるよりも、ずっと他者を必要とする五感といえば触覚、「触れる」ではないだろうか。

 例えば、片思いの人に触れたときのドキドキは、その人を見たり、その人の声を聞いたり、その人のにおいを嗅いだり、その人の作ったお弁当を食べたりしたときのドキドキよりも勝る気がする(まあ、どれもドキドキはするだろうけど)。

 触れるという行為は、触れたとたんに触れられているという点で、とても不思議な感覚だ。何より、見ること(映像、写真)や聴くこと(音楽)みたいにコピーしたり電波にのせたりできないし、においや味みたいに容器につめて届けることもできない。直接的で、動物的で、相手(対象)がそこにいなければ成立しない、五感のなかでもいちばん不自由な感覚ともいえる。

 てよみをしていてお客さんの手のひらに触れていると、その厚み、質感、温度、湿り気などが私の手のひらにじかに伝わってくる。そこには、言葉未然の情報がたくさん宿っていて、私はそれらを自然によみとることとなる。お医者さんやマッサージ師など人の身体に触れる仕事の人は、きっとみんなそういうことをしているのではないかと思う。

 人に触れて(触れられて)感じとること。そこから言葉にして伝え合うこと。その往復運動で、コミュニケーションは深まっていく。

 手相は「相術」という分野の占いで、顔相や風水などと同じく“ものの形”から占うものだけど、相手に触れながら伝えるという意味では唯一無二の占いだと思う(もしかして足をおさわりしながら占う人とかいるかもしれないが)。

 コロナ中に「てよみのてがみ」と称して、手相の写真を拝見してお手紙を書くという形式のてよみを試みたことがあったけど、目だけの情報にとてもいきづまった覚えがある。写真のなかの手をガン見して、やわらかさや質感をなんとかイメージし、やっとこさ言葉をおろしてきたような感じだった。正直、もうあまりやりたくない。

 ということで、私のてよみは対面のみです。てよみ中は遠慮なくあなたの手をぷにぷにしまくります。コピーも、早送りも、箱につめて持って帰ったりもできない、とても不便な占いですが、ネットにはのっていないあなただけの情報を知ることができるかもしれません。

  ご機会あればどうぞおたずねくださいませ。

てよみの部屋

その手のひらには何が書かれているのだろう?


 

 

 

2023年7月18日火曜日

キレギレの我が健康線についてふたたび

<健康線はその線がなければ「健康だね!」という線である。>

こんな書き出しではじまるのはちょうど7年前の今日のブログだ。私は生まれて初めての入院や手術を体験していて、その際に手のひらにある健康線の乱れについて気がついたことを綴っている。

7年後の今日、再び私は入院していて、窓の外の熱でゆがんだ景色をよそに涼しい病棟内でこれを書いている。7年前のまさかのアゲイン。反省することの少ない我が人生に、力づくで振り返りをさせられているような入院生活1ヶ月。

私の手のひらには、再びキレギレの健康線が出現している。7年前のブログの繰り返しになるが、健康線のざっくり説明は冒頭に続き以下になる。

<「健康線」というネーミングからするとあると良さそうな雰囲気なのに、ないことで良しとするちょっと不思議な線だ。もし線が出ていても、まっすぐ伸びていたら「ふつう」ということでとりあえずは問題ないとみる。

問題になるのは線の流れがクネクネしたり島ができたりキレギレに乱れたりしたとき。そういうときは体調を崩しやすいときなので気をつけてくださいね、となる。>

現在、私はこのキレギレの健康線に加え、エネルギータンクである親指の付け根もひ弱にしぼみ、手のひら全体に痩せて薄くなっている。自分てよみ史上、最も弱りきった我が手といえる。

手のひらとはこんなに正直なものなのか!と、7年前にも抱いた境地がさらに強化されて再び襲ってくる。

病気になったり、家が貧乏で憂い目にあったり、突然の不幸に見舞われたり、人生には残念ながらネガテイブな局面というのはある。そんなときに「あなたにはそんな辛いことも乗り越えられる強さがあるからカミサマがそうされたのよ、だから大丈夫!」的な文脈で励ますようなことをいう人がいるけど、本当にやめてほしいと思う。

たとえその試練がその人のその後の人生の糧となったとしても、それは結果そうなっただけのこと。目の前に辛いことが起きたからどうにか乗り越えたのであり、もしかしたら乗り越えられなかったのかもしれず、最初から、意味や、カミサマの思し召しが用意されていたわけではない。意味があるなら、それはあとから自分でみつけるものだ。

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作業療法でいつも一緒になるご高齢のOさんは、私が退院して元のように右手が動くようになったらクッキーをつくりたいと話すと、「そういう希望のある話はとてもいいわね」とにこやかに言った。

Oさんは、動かなくなった右手の痛みを緩和するためのセラピーを受けている。私は1ヶ月かけてここで少しずつ右手が回復してるけど、Oさんの右手はもう動くことはないらしい。

Oさんによく「若い人はいいわね」と言われるのがちょっとうざったかったけど、本当に心からそう思われているのだと、やっと分かった。若いとは、希望がある、ということなのだ。

だから、若い人が希望を失ってしまったようなニュースに触れると、とても落ち込むのかもしれない。それほどむごくて不自然なことは他にはないからだ。

私も若い(といわれている)うちにもっとがんばりたいと気持ちが広がる。それと、若い人が当たり前の希望を失わないように、自分にできることが少しでもないだろうか。私がてよみをする意味があるのなら、それなのかもしれない。

とりあえずはリハビリがんばって、退院したらクッキーをつくろう。

病室のベッドの上にて

追記:今日の作業療法で、Oさんに「ワタシが退院したらアナタのクッキー買えるかしら?」と聞かれた。私の作る猫型のクッキーの名前「デジネコクッキー」もすっかり覚えられていた。Oさんを勝手に高齢者にひとくくりしていた自分が恥ずかしい。Oさんだって十分にお若く、希望みなぎっていて、私もうかうかクッキー制作を先延ばしにしてはいられない。

作業療法室のステキな猫画