2020年4月2日木曜日

子どもてよみ大会の反省としてのバナナ

 幼稚園からの帰り、買い物をする母を待つ私に八百屋のおじさんはいつもバナナを1本くれた。私はバナナを握りしめ小さくお礼をつぶやく。おじさん、ありがとう。それが卒園までのおよそ2年間続いた。

 味もムリだけど、何より体にまとわりつくようなあのにおいが耐え難かった。母が漕ぐ自転車の後部座席からおじさんにバイバイをすると、家に着くまで自分の手を何度も嗅いで、おぇーってした。私はバナナが大っ嫌いだった。

 こうしてバナナは、私にとって他人の善意の象徴となった。ツバの反り返った黒い野球帽をかぶり、ちびた鉛筆を耳に挟んだ仲本工事みたいな八百屋のおじさんの、メガネの奥からのぞく笑った目。いまでもスーパーでバナナを見かけるたびにその視線がちらつく。

「子どもだからってみんなバナナが好きだと思うなよ!」という憤りは幼い私にも確かにあったはず。だったら最初に「バナナが嫌いなんです」と正直に言えばよかったのに。そうしたら2年間も嫌いなバナナを握りしめなくてすんだのに。十分に大人になってからも何度もぐるぐると考えてしまう。善意の圧力に屈したのか。自分の面倒な嗜好を申し訳なく思ったのか。世の中はシンプルに礼儀正しくまわっているので自分が荒立ててはいけない、と、危うげに自立しようとする感覚。

 今回の「子どもてよみ大会」を終えて、私はとても反省したことがある。それは、てよみの結果を子ども扱いするテキストで書いたことだ。子どもでも読みやすいようにと思い、語尾に「ね」とか「だよ」とか付けてフレンドリーな文調にしていたが、それこそ子どもへの偏見だった。伝え方の距離感に子どもも大人も関係ないし、私はふだん初対面の人にいきなりフレンドリーに話しかけるようなタイプの人間でもない。なのにテキストになると、子どもというイメージ先行で話を進めてしまっていたように思う。気がついたときにはあとの祭りだった。いつのまにか自分が善意のバナナを押し付ける大人になっていた。

 懲りずにまた機会をみて「子どもてよみ大会」ができたらと思う。ほんとうは会って手を触りながら話せた方がテキストにするよりずっと伝えやすいのだけど、当分むずかしそうな世の中なので、ことばで伝えることをもっとがんばろう。「あなたはバナナがお好きですか?」まずはそうたずねるところから。

『根本きこストーリーとフード』より「焼きバナナ」の挿絵。
もちろん作ったことはない。