2022年1月20日木曜日

フジのやつ

 起き抜けに窓を開けて、朝焼けのピンクに染まる遠くの富士山に向かって「おはよう」と声をかけるのが、この部屋に越して1年経つ私の日課となった。でも、くもりの朝は、白くぼんやりとした空にフジはすっかり身を潜めてしまう。そうなると、あんなに愛おしかったフジのやつが、あのビルの左にいたのか、右にいたのか分からなくなるくらい、私の愛おしさも、ずいぶんぼんやりしたものだと思い知らされる。

 誰かと会っているとき、とっておきのおかしみを共有できたりしたら、とてもうれしい。かといって、おかしみも楽しさもなくても、確実に愛おしさのようなものだけが残ることがある。私の場合、二度と会えるかも分からない、手のひらをよんだ人にそんな気持ちになったりする。

 人間関係の悩みを打ち明けてきたその人に、「深入りしなければみんないい人」という私の持論を話したことが、果たしてよかったのかは分からない。これは、端的に言ってしまうと、対人というのは付き合いが浅ければがそれほど害はないのだ、ということになる。

「深入りしない」この姿勢をしっかりキープできれば、人間関係の面倒に振り回されることはなくなるはずだ。向こうから深入りしてきそうな相手にだけ、周到に間合いを取るスキルはいるが、こればかりはセンスと経験だ。

 誤解がないようにいうと、表層的で心ない人付き合いを推奨しているわけではない。ただ、距離感があるからこそ保たれる友好関係は、距離を縮めて関係を維持することよりも概ね気がラクだし、軽快な楽しさもある。それに、相手のことをよく知らないからこそ、やさしくできたりもする。

 浅い付き合いに必要なのは、やさしさ。やさしさとは、想像力でしかない。

 小さい子どもがいるあなたは、その子がいなかった頃の、自分のためだけに流れていた静かで孤独な時間を思い出してみる。子どもなんて無縁な暮らしをしているそこの私は、我が子が「お腹すいたーっ」と時を選ばず膝もとに飛びついてくる生活を妄想してみる。そんな子どもを見て笑っている、駅前でビッグイッシューを売る歯のないおじさんの、歯のない理由だって考えてみる。かつてはそんな子の父親だったのかもしれない。

 いまの自分とはまるでちがう人の境遇を想像してみると、そんな経験がなくたって、自分が拡張されていく。新しい本を読むのと一緒だ。深入りをしなくても、想像しあう余力があれば、人は人を愛おしく思っていられる。

 毎朝あいさつするフジのやつのことだって、私は大して知りはしない。次、いつ噴火するつもりなのか。そんなマグマをはらんでいることは薄々知ってはいるが、フジへの「おはよう」はかかさず、私の日々に小さな平和をもたらしている。 

 少しの愛おしさがあればいい。それより深入りするかも、いつ噴火するかも、すべては自然のなりゆきで。