2018年6月25日月曜日

ボディハッカーさんの手

“ボディハッカー”とは、自分の身体を改造している人のことをいうのだそうだ。改造といっても、義手やマイクロチップを埋め込むなどの実用的なものから、ライトを手の甲に埋め込んで透けて光る皮膚を楽しむなんていうアートな嗜好のものまであるらしい。まったく馴染みのない世界だけど、コンピューターに不正侵入する人をハッカーと呼んだりすることからして、肉体に不正侵入しているような、なんだか不気味な感じがしてしまう。

私がテレビ(「クレイジージャーニー」大好き!)で見たカナダのボディハッカーさんは 、頭頂部にシリコンを入れて作ったツノが二本、顔半分にレースのように細かい白いタトゥが施され、眉間、耳、鼻、顎など顔まわりだけでもピアス15個くらい、首にもぎっしりタトゥ、そして手には自宅やバイクの鍵にもなっているマイクロチップを埋め込み済み、という仕様の方だった。




道ですれ違ったら二度見どころじゃすまされないお顔である。そんなクレイジー道まっしぐらなボディハッカーさんの手のひらがテレビ画面に映し出され、これまた釘付けになりました。



こ、これは、めっちゃ、ノー・クレイジー!!!

頭脳線と生命線の根元がしっかりくっついていて、石橋叩いても渡らないかもしれない用心深さ。頭脳線は横に長く、リアリストで合理的なことを好み、徹底的に考えて行動するので無茶なことはまずしない。感情線もおだやかに長く、愛情深く生真面目さが伺える。ちなみに張り出した生命線に乱れもなくとても健やか。

なんと誠実な手なんだろう。とてもツノが生えたイかれた人には思えない。何も知らないでこの手だけを見せられたら、地味なスーツ姿で役所なんかで働いていて親戚のおばちゃんたちがこぞってお見合いさせたがるような実直な青年を思い浮かべるだろう。

意外性満載で呆然とするが、 いや、だからなのか。

身体改造なんてふざけてやったら命とりだ、誠実な人でなければやっていけないのかもしれない。自身もボディハッキングの施術を仕事にしているという彼は、指先が丸く器用そう。それに長く横に伸びる頭脳線は、医者に向いてるといわれる線なので、同じく身体を扱うボディハッキング師(?)にもうってつけなのかもしれない。きっと人からも信頼される腕前なんだろう。顔だってよくみればやさしそうじゃないか。

ボディハッカーさんは、ヘンタイであることにとても真摯な人なのだ。

「創造性豊かな人間はヘンタイである」とタモリさんが言っていたことを思い出す。創造することに誠実であるがゆえにヘンタイになるのであり、ヘンタイになるには誠実さが不可欠ともいえる。また、ヘンタイとは精神の有り様なのだから、外見でそれが伝わるか伝わらないかは別問題なのだ。

これは「人は見た目では判断できない」というよくある教訓ともちょっと違う。ボディハッカーさんのクレイジーな見た目があった上で、その誠実さが見えるか見えないか。こちらの教養が問われているようで、ドキッとする。

当初、黒い森に潜む悪魔のように見えたそのお顔が、新進気鋭のエンジェルに思えてきた。これも手のひらのお導きなんだろうか。私もいつかこのエンジェルにマイクロチップでも入れてもらおうか、なんて思ったり。。。

2018年5月18日金曜日

よっちゃんとアドラーちゃん

<幸福は対人関係の中でしか得ることができない>

って、本当にそうだろうか? アドラー心理学をちょっとばかしかじってから、ずっと引っかかっている定義である。<すべての悩みは、対人関係の悩み>であり、<すべての喜びもまた、対人関係の喜び>だとアドラーはいう。<誰とも関わらなければ悩みはないが、その代わりに喜びもない>って、極論だけど、まあ、そうかも? うん、でもなにかガッテンできない。

ここでよっちゃんである。


黒の油性マジックを使ってメイクをし、女性物の洋服を好み、巣鴨に出没する75歳のおじいちゃん。「月曜から夜ふかし」というテレビ番組の街頭インタビューをきっかけに一躍有名人になった。私もそのデビュー(?)からずっと衝撃を受けている一人です。

どうしたって目が離せなくなるよっちゃんだけど、奇をてらってそんな格好をしているわけではないようで、子どもの落書きみたいにまつげを描いたぱっちりおめめも、マジックの太い方で横一文字に描いたおひげも、「いい男」になるからやってるのであり、女性物の洋服も、小柄なよっちゃんにはぴったりで、柄もきれいで楽しいから着ているんだそう。

そんな格好をするようになったのは60歳の頃からだそうで、

「たまたま鏡を見たのね。バカみたいな顔だし、年寄りくさい気がしたから、マジックでたまたまやったのね。そしたらいい男なんでよ、それから15年」

ということらしい。よっちゃんは、自分で発見したメイクやファッションをとことん楽しんでいる。他者からどう見られるかなんて気にしているようすはない。気にしないと決めたのか、本当に気にならないのかは分からないけど、これは、あれだ、アドラーのいう、

<「わたし」の価値を他者に決めてもらうことは依存。「わたし」の価値を自らが決定することが自立>

からすると、よっちゃんはめっちゃ自立した人である。そして、<依存する人は永遠に満たされることのない生を送る>のに対し、<自らを承認した自立した人の先には幸福な生がある>というんだから、よっちゃんは、アドラー的にもいまを幸せに存在していることになる。

そこで冒頭の私の疑問に戻ります。

本当に、<幸福は対人関係の中でしか得ることができない>のか? 

この「対人関係」に欠かせない「他者」のことをアドラーは、「自分と結びついた人」=「仲間」といっている。その上で、<他者を自分を陥れようとする「敵」と見るか、必要があれば援助する用意がある「仲間」と見なすか>という2択を私たちに突きつけてくる。

<対人関係の中に入っていく勇気のない人が他者を敵と見なし、逆にいえば、他者を仲間と思えれば、対人関係の中に入っていく勇気を持つことができる>んだって!

確かに、自分がうまくコミュニケーションできないことを「あいつはやな感じだから」と他者のせいにするのは簡単だ。コミュニケーションだけではない、「ブサイクだから彼女ができない」とか、「病気だから仕事ができない」とか、それらしいもっともな原因(トラウマ)を掲げれば、自分ができないことを正当化できる。そしてできない自分にいつのまにか安住してしまう(ちなみにそれをアドラーは「劣等感コンプレックス」と呼んでいる)。

うーん、なかなか手厳しいね、アドラーちゃん。ただ、反対に考えれば、元々人はあらゆる原因に縛れられることはなく、自分がそう決めれば変われる「生きる自由」を持っているのだ!という、厳しくも優しい定義にも思える。

「原因」は人生に「影響」はするが、人生を「決定」することはできない。決めることができるのは自分の意志だけ。しかし決めるには勇気がいる。アドラー心理学は勇気の心理学ともいわれているそうな。

ちょっと話が外れてしまったけど、<幸福は対人関係の中でしか得ることができない(しかも、他者を「仲間」と思えないといけない)>問題について、

ここで再びよっちゃん登場である。


つい先日、「夜ふかし」で公開されたよっちゃん手書きの人生グラフに私は釘付けになった。


グラフをよくみると、よっちゃんの人生が落ち込んだのは「働き出して社会にもまれて行く」20歳前後あたりから。 その後、「職を転々としイジメ等イヤなこと起こる」30代、「ユメも希望もなくなる、ドロボー(にあう)だの対人関係にイヤ気」の40代、「人生につかれる、ガタ来る」50歳でどん底。ここまでを「楽しくない」と一括している。

がしかし!

「♡ 仕事ない、好きなこと出来る、孤独愛する、対人のわずらわしさなし、年とったらバラ色だ!」と60歳からいきなり急上昇! そう、あの油性マジックメイクを始めた頃から、よっちゃんの人生は逆転した。

さあ、どうだ、アドラーちゃん!

よっちゃんをどん底にしたのは本人も明記するように対人関係にある。そして、よっちゃんを「楽しい」に一気に押し上げた理由には、その対人関係からの解放が大きくある。アドラーの定義とは真逆、対人関係の外に出る勇気により、よっちゃんは幸せを得たのだよ!

そこで、恐れ多くがすぎるけど、私はアドラーちゃんに提案します。

他者を敵か仲間かという2択ではなく、「敵でもなく、仲間でもない」と考えるのはどうかな? 

他者はただただ他者であり、まずは憎む相手でも、愛する相手でもない。 そんなフラットな立場から、放っておいても関係が“始まる人”とは始まるし、“始まらない人”とは始まらない。

もっというと、始まらないことが気になる人がいれば、その時点で、その人とは関係が始まっているのであり、そうなったらアドラーちゃんのいう勇気(他者は仲間!)を持って対人関係に踏み込めばいい。

フラットな立場でいる上で大事なのは、「他者は敵ではない」と思えることと、他者と関わる際には「デフォルト親切」にすること。そこから対人関係に入っていってもよし、入らないままフラット維持でも別によし。

ね、アドラーちゃーん、対人関係のストレス多々な現代社会だし、これくらいのゆるさでよくなくなーい?

よっちゃんは、「自立」=「自分の価値を自分で決めること」を獲得したことで、対人関係をフラットにできたんじゃないかな? それで周囲のしがらみから自由になって、楽しい自分と楽しく過ごすキラキラステージに辿り着いたのでは?(もちろんそこに孤独はある。でも孤独は不幸ではないもんね)

よっちゃんの勇気について、もっと聞いてみたくなる。

ひとつだけ、誤解しないでほしいのは、決して、対人関係の中では幸福を得られないといっているわけではない。

よっちゃんだって、わずらわしさから脱却して孤独を愛するといっているけど、こうしてテレビに出たり、街を歩いたりすることで、新たに生まれた対人関係の中、感じる幸せもきっとあるはず。

独りの幸せと、誰かとの幸せと、両方あっていいよね。

どうかな? よっちゃん、アドラーちゃん!



*アドラー心理学について引用させていただいた書籍
『幸せになる勇気』岸見一郎・古賀史健著
『幸福の哲学 アドラー×古代ギリシアの智恵』 岸見一郎著



2018年5月11日金曜日

「友蔵になりたい」女子の手

彼女は30代で、未婚で、企業の広報として働いている。仕事は忙しく、理不尽な要求も多く、心身ともに疲弊する日々、らしい。

そんな彼女が羨望してやまない“友蔵”とは、「ちびまるこちゃん」のおじいちゃんのこと。日なが一日のんびり縁側などでお茶をすすって、孫のまることの交流を何より楽しみに生きている、そんな友蔵みたいな暮らしをしたいという。

つまり、働かないで、誰にも責められず、ごはんもちゃんと食べられて、大事な人もいるという暮らしに、彼女は心底憧れている。そう、それは

=隠居。

そういえば江戸時代では、四十でもう「ご隠居さん」になれた。平均寿命が早かったというのとは別に、そういう役割の判然としない存在を許容できた懐のある世の中だったんじゃないか。

人生100年と言い出した現代日本では、定年も70に引き延ばすかだの、生涯現役ムードも強まり、実際にビルの清掃や警備の仕事を年配の方がされているのをよく見かけるようになった。

「幸福」は、誰か(何か)に必要とされている方が感じやすいという脳科学的な観点からすれば、仕事をしている方が人は幸せに近いともいえなくもないが、一生働くのか〜と考えると、なんともしんどい気分になるのも確か。

(AIが台頭することにより人間は働かなくてもベーシックインカムで暮らしていける21世紀型“ニュー隠居ライフ”を私は渇望します!)

この先、この国で彼女が友蔵になれる道はあるだろうか? 彼女の小さな手のひらを眺めながら考えてみる。

マスカケ+頭脳線と、短い線が重なるようにできた金星環。マスカケ自体に頭脳線の意味もあるので2本の頭脳線で考察力たくましく、金星環と感情線のヒダの多さもあって、野生の勘というべきか、とにかく察しがよく、人の倍考えて感じる人。感受性が強い分傷つきやすいのに、加えて根が真面目で自分の正義に忠実。その正義感からか売られてない喧嘩まで買っちゃうし、戦闘後に傷だらけになって「友蔵になりたい〜」と嘆き落ち込んでも、小さな手の人らしく、またよっしゃ!と立ち上がる。

これじゃ生きるのにエネルギー消費も半端ない(彼女がごはん大盛りを常にするのもそのせいか?)。友蔵みたいに省エネでのほほんと生きることに憧れるのも分かる気もする。ただ、本人が望むほど人生をサボれる性質ではないのも確かで、察しのいい彼女にその自覚が薄いのが謎である(いや、本当は分かっているのか?)。とにかく、己の行く先にある問題は、自分で考え立ち向かわなきゃ気がすまない。誰かに頼るのはちょっと苦手。ってことは、一生働いちゃうタイプ。

うーん、ぜんぜん、友蔵、向いてない!!!

本人のプランとしては専業主婦になって友蔵暮らしを実現するんだそうだけど、そんなの相当裕福な相手でなければ難しいよね。それと、家にあんまりいない人がいい。誰かと一緒にいすぎちゃうと、彼女の野生の勘がビビビッと発動し、正義感と戦闘意欲を刺激、お互い傷だらけとなりかねない。好きな人にも忠誠心強いタイプだけど、ほどほどの距離感をキープした方がお互いのためと伝えておきます。

そうしてみた結婚線からは、ちょっと年下との縁ありとある。はて、彼女より年下で、そんな稼ぎが良くて余裕のある男子がそうそういるだろうか? どちらかというと彼女が友蔵を養う方なんじゃ、、、!

ま、これ以上は手相で分かる話ではない。
結局、彼女に私が言えることはひとつ。

あなたは友蔵にならなくても、たくましく人生をエンジョイできます!