2022年8月12日金曜日

歳ってなんだ?

 人が誰かを若いとか若くないとか判断するとき、いったい何を見ているのだろう? 肌、しぐさ、雰囲気、ファッション。すべてが相まったその人がまとっている空気。でもそれって、すごく感覚的。判断基準も不確かで曖昧なものだ。

 手のひらにある「生命線」や「運命線」には、「流年法」という歳をよみ取る方法があって、線をある間隔に区切って年齢を算出することができる。線が途切れたり切り替わったりしたところが人生の節目となるので、「運命線が切り替わっている25歳で転職したのでは?」などとよみとることができる。手相観の達人ともなれば、こまかく1歳単位で言い当てることだって可能らしい。

 でも、その歳って数字、ほんとうにあてになるのかな? と、いつも思う。

 人生の刻まれ方ってそれぞれにちがう。5年土の中にいたセミも、17年土の中にいたセミも、よちよち木にのぼって成虫となって鳴くのは、同様に初めてのオトナ体験となる。幼虫時代の長さのちがいにどれほどの意味があるのかなんて、当セミにも分かるまい。

 赤ちゃんからスタートして子どもから大人になって老人になって死ぬ。という人生の大まかな流れは同じでであっても、子ども時代がビヨーンと長い人もいれば、さっさと老生の境地に達した幼子だっているかもしれない。けして横ならびではない人の人生を、一律に歳で区切ったり、世代に分類してくくるのってすごく乱暴だ。

 そんなふうに思うようになってから、私はできるだけ人の年齢を把握しないようにすることにした。相手が自分より年上か年下かも可能なかぎり知らんぷりして、自分にとってその人がどんな感触の人なのか、それだけを頼りに接している。

 先日いっしょに遊んだ友人の娘さん(さすがに年下とは認識!)が、夏休みの宿題を最初の1週間くらいで片付けたという話をしていて、私にはないその地に足ついたしっかりさんぶりに、憧れを抱かずにはいられなかった。語彙は少なくても、自分の意志をきちんと相手に伝える話し方といい、生まれてからわずか数年の人生経験で到達したとは思えない、人の懐の深さのようなものを感じた。唯一、彼女がプールで帰りたくないと駄々をこねたときだけ、私は大人になれた気がする。

 年齢把握を放棄してから感じるのは、人とのコミュニケーションがとてもラクだということ。年齢バイアス(「〇歳だから〇〇」的同調)があるところで人と接するときより疲れないし、ずっと楽しい。気の合う人も、気を使う人も、結局は歳など関係なく、自分との相性なのだという単純な原理にいきつく。

 一人の人間の中には、子どもも大人も老人も(男も女も)同時に生きていて、対する人によって自分の歳も自然と変わっているものなのだ。母親に対しては甘えた子どもの自分が、好きな人に対してはドキドキする少女の自分が、猫に対してはいっしょにのんびりしたいおじいちゃんな自分がいたりする。それだって流動的で、関わり合いの中で変化していく。

 出会う人の数だけ自分がいて、お互いにどんな年齢の顔があらわれるかは、あなたと私の偶然のつながりが決めてくれる。人の歳がいくつかだなんて、ほんとうに曖昧なものなのだ。


*ちなみに私のてよみでは年齢を伺っています。手のひらにある人生の切り替え時期と、実際の切り替えがあった年齢をこたえ合わせしながら、その方の人生のテンポをよんでいくようにしています。

 

プールではしゃぐAちゃんをお父さん気分でパチリ



2022年1月20日木曜日

フジのやつ

 起き抜けに窓を開けて、朝焼けのピンクに染まる遠くの富士山に向かって「おはよう」と声をかけるのが、この部屋に越して1年経つ私の日課となった。

 でも、くもりの朝は、白くぼんやりとした空にフジはすっかり身を潜めてしまう。そうなると、あんなに愛おしかったフジのやつが、あのビルの左にいたのか、右にいたのか分からなくなるくらい、私の愛おしさも、ずいぶんぼんやりしたものだと思い知らされる。

 誰かと会っているとき、とっておきのおもしろ話を共有できたりしたら、とてもうれしい。かといって、おかしみも楽しさもなくても、確実に愛おしさのようなものだけが残ることがある。

 私の場合、二度と会えるかも分からない、手のひらをよんだ人にそんな気持ちになったりする。

 人間関係の悩みを打ち明けてきたその人に、「深入りしなければみんないい人」という私の持論を話したことが、果たしてよかったのかは分からない。これは、端的に言ってしまうと、対人というのは付き合いが浅ければがそれほど害はないのだ、ということになる。

「深入りしない」この姿勢をしっかりキープできれば、人間関係の面倒に振り回されることはなくなるだろう。向こうから深入りしてきそうな相手にだけ、周到に間合いを取るスキルはいるが、こればかりはセンスと経験だ。

 誤解がないようにいうと、表層的で心ない人付き合いを推奨しているわけではない。ただ、距離感があるからこそ保たれる友好関係は、距離を縮めて関係を維持することよりも概ね気がラクだし、軽快な楽しさもある。それに、相手のことをよく知らないからこそ、やさしくできたりもする。

 浅い付き合いに必要なのは、やさしさ。やさしさとは、想像力でしかない。

 小さい子どもがいるあなたは、その子がいなかった頃の、自分のためだけに流れていた静かで孤独な時間を思い出してみる。

 子どもなんて無縁な暮らしをしているそこの私は、我が子が「お腹すいたーっ」と時を選ばず膝もとに飛びついてくる生活を妄想してみる。

 そんな子どもを見て笑っている、駅前でビッグイッシューを売る歯のないおじさんの、歯のない理由だって考えてみる。かつてはそんな子の父親だったのかもしれない。

 いまの自分とはまるでちがう人の境遇を想像してみると、そんな経験がなくたって、自分が拡張されていく。新しい本を読むのと一緒だ。

 深入りをしなくても、想像しあう余力があれば、人は人を愛おしく思っていられる。

 毎朝あいさつするフジのやつのことだって、私は大して知りはしない。次、いつ噴火するつもりなのか。

 そんなマグマをはらんでいることは薄々知ってはいるが、フジへの「おはよう」はかかさず、私の日々に小さな平和をもたらしている。 

 少しの愛おしさがあればいい。それより深入りするかも、いつ噴火するかも、すべては自然のなりゆきで。