2024年7月4日木曜日

しびれと生活

 6月の雨の日曜日、私は朝からクッキーを作っていて、そんな姿をみた家族に「元気になってよかったね」と言われる。

 一年前の同じ日の朝、私はストレッチャーに横たわっていて、手術室の前でその扉が開くのを家族と一緒に待っていた。

 自分としてはうすらぼんやりとした記憶でも、家族はありありとこの日のことを覚えているらしい。8時間におよんだ手術に至るまでと、その後の数ヶ月、この家族にどれだけの心配と病院へのご足労をかけたことか。

 あのときのことを思い返すと、いま麺棒で伸ばしているクッキー生地がクレープみたいにペラペラになりそうなので、私はなま返事をして、次の型抜きに気持ちを向ける。

 私の右手の小指と薬指は、あれからずっとしびれている。脊髄に腫瘍ができて手術で無事にとってもらえたけど、腫瘍をとるときに右手につながっている神経も少し傷めたので、「しびれ」という後遺症が残った。

 しびれというのは痛みではないのでツラくはない。指の動きだって問題はない。大変ね、と言われたらそうでもなく、かわいそうに、と言われたら居心地わるい。

 でも、フツウかといえば、フツウではない。 

 我が家の浴室の白くウロコ状にくもった鏡を見るたびに、しびれているみたいだな、と思う。

 鏡には自分らしきものがぼんやり映っているのだけど、それが仮に自分ではなかったとしても、鏡がしびれているからおそらく分かるまい。おかげで自分の裸体を直視しなくてすむから、鏡はあえてしびれたままにしている。

 こんなふうにしびれているせいではっきりしないことが、生活の中には、ままある気がする。とくに、心なんてちょいちょいしびれているのではないか。

 傷ついたり悲しかったりしていても、自分でちゃんと気がつけないとき。いま自分がツラいのかもしれない、となんとなくは分かるのだけど、この「かもしれない」というのが、心のしびれのような気がする。

 医者にきくところによると、しびれについては医学的に解明されてないことが多いそうだ。おそらく「しびれ」には、「痛み」のように生きる上での差し迫るものがないから、研究もそれほど進まないのだろう。

 この一年ばかり、右手や鏡や心のしびれと過ごしてきて、私は、徐々にそれとなく、しびれのことを受け入れていった。

 退院したばかりでなにも手につかず、ただただ残暑に包まれた家の中で過ごしていた頃、やたらとしびれが気になったこともあった。自分の右手を左手でビタビタと叩いたりもした。思えばそれは心が敏感すぎるときだった。体や頭が暇になると、心は活発になる。

 心のヤツの好きにまかせると、ささやかなこともふくらんで、いたずらに深刻にしてしまうこともある。心を無視してはいけないけど、心に重きを置いていると、生活はしんどい。

 心のことはさておいて何かに夢中になっているとき、心は軽やかに健やかだ。多少しびれていても支障はない。

 この日、すっかり右手がしびれていることも忘れて作ったクッキーは、我ながらうまくできた。家族にもよろこんでもらえたようだった。

 

てよみクッキーの型抜き。
ちょっとマティスの図案ぽくて好きな一枚



2024年4月5日金曜日

アナグマと子リス

 近ごろよくきく「多様性」ということばを耳にするたびに、なんだかモヤモヤしてしまう。「世の中いろんな人がいてあたりまえだよね」ということの以前に、「一人の人間の中にもいろんなのが住んでますよね?」と思うからだろうか。

 先日、てよみをしたOさんは、右手に子リスを、左手にアナグマを住まわせていた。
(ちなみに手相では主に右手からその人の外面、左手から内面をよみとります)

 イラストも描くというデザイナー5年めのOさんが、きっとその道ですてきな仕事をされているのにちがいないことを、私はその手のひらから確信した。でも、私と話しているあいだにも開いていた手指がへなへなとしぼんでしまうくらい、Oさんはなんとも自信なさげだった。

 アナグマがOさんの左手からひょっこりと現れたのはそんなときだった。時刻は18時をまわるところだったか。日中は暗い巣穴の中でもそもそしていたそいつは、夜の森の空気を胸深く吸いこみ、その自由に鼻をくんくんさせてうれしそうだ。

 すると、さっきまで右手で大人しく木の実をカリカリしていた子リスが、何やら必死にちょこちょこあたりをかけずりだした。どうやら私の視線をアナグマから反らせたいらしく、自分に気を引こうと変な汗までかいている。

 あくまでアナグマは人目のつかないところで気ままにくらしていて、そんなアナグマのことを子リスは恥ずかしく思っているらしいことが、次第に伝わってくる。

 子リスは日中せっせと木の実を集め、今日食べない分は食料不足の冬に備えてこっそり土の中にかくしている。常にあたりを見まわして危険がないかビクビクし、風が木の枝をちょっとゆらしただけでも素早く木のかげに身をひそめたりする。

 そんなふうにマジメで臆病な子リスだけど、実は自分がこの森をつくっているのだというプライドがある。子リスが土にかくした木の実が芽吹くことで森ができている。そのことを誇りに思っていることは、もちろん自分だけの秘密である。

 私は子リスにきいてみた。「なんでアナグマを恥ずかしいと思うの? 一緒にくらす森の仲間なのに」

 すると子リスは、「あんな自由で勝手なやつは、森のみんなに迷惑をかけるからね」とうつむいた。そんなふうに言いながらも、子リスはアナグマが気になって仕方ないらしい。子リスが土の中にかくした木の実をアナグマがいたずらに掘り出していても、とがめようともしない。

 子リスはアナグマを必死に守っているのだということに、私は気づく。自由勝手なアナグマにヒヤヒヤしながらも、子リスはアナグマのことがとても好きなのだ。

 アナグマは子リスの気も知らず、夜な夜な楽しげに絵を描いたりしている。子リスはそんなアナグマのことをこっそり見守り、困ることのないように木の実を分け与えていたのである。

 もちろん、自由勝手なアナグマも、マジメで臆病で実は誇り高い子リスも、Oさんのことである。

 しばらくは、Oさんの子リスの気が休まることはなさそうだ。でも、そう遠くない未来には、子リスだって大人になる。マジメで臆病な性格はそのままでも、もっと大きな森を見据えて、勇気ある小さな一歩をふみ出すときがくるだろう。

 そのとき、子リスが心細くなったら、アナグマを頼ればいい。自由勝手なようでいて、なかなか思いやりのあるやつだから。木の上のサルや、ふだんは静観しているフクロウなんかも、きっと助けてくれるだろう。

 Oさんの手のひらの森の多様性について、私はひそかにとてもワクワクしていた。