2019年10月12日土曜日

ノバトさん

 うちのマンションの小さな中庭にあるひょろっこい木の枝に、野鳩の巣を見つけたのは9月の終わり。野鳩はその体にしてはちょっと小さいんじゃ…と言いたくなるような巣を座布団みたいにしてちょこんと座っていた。キリッとした目つきで、こちらを警戒しているのか微動だりしない。それでもなんだかかわいくて、そこを通るたびにノバトさんに挨拶するのが私の日課となった。

初めましてのノバトさん

 いつ見ても銅像みたいに固まってるし、挨拶したところで返ってくるわけでもない。ケンタッキー前のカーネルとなんら変わらない立ち位置なのに、そこに生きていて卵をあたためているんだという事実が含まれるだけで存在が迫ってくるから不思議だ。なぜ、よりによってこんな丸見えで頼りなげな場所に巣作っちゃったの?という間が抜けた感じも、ノバトさんの愛嬌のように思えて日に日に親しみが増す。「おはよう」「いってきます」「ただいま」「おやすみ」。なんでもない言葉をノバトさん相手につぶやく毎日は、自分にとって新しかった。

 私はずっとペットを飼うのをどこかで怖いと思っていた。 自分がいなければ生きていけない存在を作ってしまう怖さだ。なので、ノバトさんとの距離感は理想的だった。お互いに自立をしていて、干渉せず、対等で、ただそこに生きていてくれて、愛おしい。

丸くなってきたノバトさん

 野生の鳩の卵がどのくらいで孵るのかまったく知らなかったけど、ネット検索はしなかった。あくまでノバトさんと私との関係の中でわかることだけでいい気がした。日に日に羽を膨らませ丸くなっていくノバトさんを見て、そろそろなのか?と思ったり。でも卵が孵ったらそんな小さな巣で育てられるのか?と無性に心配になったり。

 ノバトさんとご近所になって11日目。史上最大の台風が近づいていると世間が騒ぎだして、私の頭の中はノバトさんのことでいっぱいになった。あんな枝にちょい乗せな巣、即落ちるに決まってる!!! 自分にできることはないか? でも人間が手出しをしてはいけない気もする。考えはぐるぐるし、思わずいつも聴いているラジオに相談メールをする。

 野鳥の会をしているリスナーさんからの助言は、「怪我をしていたりしない限り野生の生き物に人が手を加えてはいけない。もし巣が落ちてしまったら保護して行政の鳥獣保護に連絡すればよし」だった。とにかく見守るしかないらしい。とりあえず保護用のダンボール箱を用意して、あとは台風が外れてくれることを祈るのみ。雨に濡れた羽を膨らませまん丸になってるノバトさんを見て、胸がつまる夜。

明後日台風くるらしいよノバトさん


 台風到来前日の朝。いつものように挨拶しようとのぞいた先に、ノバトさんの姿はなかった。巣には白い卵が1つ。へぇ、ちゃんと卵あったんだ、とのんきに思うと同時に、あまりに唐突な展開すぎて自分の心拍数が一気に上がるのがわかる。もしかして巣から落ちたのかもと、巣の下を探しつつもドキドキが止まらない。いない。どこにもノバトさんはいなかった。

 卵が孵らないと見限ったのか、台風に感づいて避難したのか、真相はノバトさんにしかわからない。一日経っても帰ってこないところをみると、本当にさよならみたいだ。


ノバトさんのいない朝

 ずっと同じ空間にいれば必ず親しみが湧くというものでもない。毎日会っていても心が通わない人はいる。人間でも、動物でも、モノにだってきっと相性ってものがある。そうやって考えると、ノバトさんへのこの気持ちは、やっぱりあのノバトさんでなければありえなかった愛しさだ。それと同時に、ノバトさんは野生の野鳩で、無情ということもなく、あるべき姿でただ生きていただけだとも思い知る。

 台風のただなか、ぽっかりした心を浮かべてノバトさんのことを思う。

(この前のブログが「LOVE唐揚げ」だったりするけど、どちらもトリについての愛の話として読んでいただければ……)

2019年8月24日土曜日

LOVE 唐揚げ

 おいしい唐揚げにありつくたびに、一人じゃなくてよかったなあと心底思う。
 もし、この世界に唐揚げが好きな人間が私一人だけだったら、精魂こめておいしい唐揚げを作ってくれるお店は一件もなく、よりおいしい作り方を考案してくれる料理研究家はきっといない。
 私は一人、誰にも見向きもされず鶏肉に下味をつけ、片栗粉をまぶし、黙々と揚げるのだろう。それだって悪くないかもしれないが、自分という可能性から突き抜けた唐揚げに出会う喜びは知らないままだ。
 唐揚げに携わる人たちがちゃんと商売になるくらいに、唐揚げを求める人たちがいる世界。唐揚げを求める人たちの中には、私の嫌いな人だっているかもしれないけど、それだって唐揚げの前ではありがたい存在だ。
 そんな世界に生まれて私は本当に運がよかったと思い、一人じゃない素晴らしさを、一人奥歯で噛みしめる。

Y駅にある中華そば屋の唐揚げは衣がザクザクで塩味で本当に美味しくて毎日でも食べたい。
ごちそうさまでしたと挨拶すると前歯の欠けた店主が満面の笑顔で
「またお待ちしてます!」と言ってくれるのもおいしいの一部

2019年5月21日火曜日

サボテンときのこと私たち

 ある撮影現場に居合わせたときのこと。フランス人の長身で細マッチョな男性モデルを目の前にした日本人サラリーマンのKさんが、「世の中不公平だよなあ〜」と自分の出っ腹をさすりながら自嘲気味に呟いたので、「いやいや、Kさんもあのモデルさんもよく似てますよ」と話しかけた。
「目は二つあるし、鼻は一つだし、口も一つ、耳は頭の横に二つくっついてるし、五本指で手も二つ、二足歩行だし、世界をカラー三原色で見てる。そっくりですよ!」
 Kさんは苦笑してたけど、私が心の底からそう思ったことに嘘はない。

 電車に乗っているとき、目の前に座る制服を着た女子高生が本当は50過ぎだとしても驚きはしないな、と思ったことがある。その女子高生が老けていたからとかではなく、その電車に乗っているすべての人間が、若くも年寄りにも見えて、どちらでもあるように思えた。
 ドア横に寄りかかってスマホを見ているあなたと、優先席でぐったり眠っているあなたの違いは何だろう? 年齢、声、クセ、昨日食べたもの? そんな全然違うかもしれない私たちは、同じような眠たい目つきで停車駅の名前を確認したり、お互いに隣に座る人間をちょっと不快に思ったりしている。私たちは大して違わないんじゃないか?

 だいたい同じ形状でできている私たちは、仮に頭の中ではいろいろ考えていたとしても、やることといえばよく似ている。起きて、ごはんを食べて、うんこをして、眠る。とりあえず、生きていこうとしているところなんてそっくりだし、「明日」があるってふつうに思っているところなんて、とても私たち人間っぽい。

 他の生物からすれば、私たちの違いなんて不明瞭だろう。そのサボテンとあのサボテンの違いが、私にはよく分からないように。
 私にとってサボテンは、「トゲトゲして暑さに強い奴ら」だ。サボテンにとって人間は、「せっかく体に取り入れた養分を排泄しちゃう不思議な生き物」かもしれない。

 きのこ狩りに行くと、最初はぜんぜん見つけられなかったきのこが、森に目が慣れるにつれて一気に見えてくる瞬間があるという。それまで森と同化して身を潜めていたきのこたちが、「実はこんなにいたのさ!」とどっと出現するそうだ。

 人の手のひらをじーっとみていると、そんなきのこが出現するような瞬間がある。5本の指と、手のひらの丘を縫うようにある生命線、感情線、頭脳線などの構造は誰でも同じようだけど、その手のひらをよくよく読み込んでいくと「こんなにみんな違うんかいっ!」と、途方にくれたくなるような瞬間が。

 宇宙から見ればひとまとめにされてしまうだろう私たちは、それぞれの小さな渦の中では、なんとさまざまなんだろう。サボテンと、きのこと、人間の違いがあって、サボテンの中と、きのこの中と、人間の中にも、とても細やかでかけがえのない違いがある。

 みんな似ていて、みんな違う。

新宿御苑内の温室のサボテン「キンシャチ」。