2016年1月18日月曜日

っぽさのこと

「手は道具だから使い方次第で表情も変わるし、まったく同じ手相というのはありえない。だから、そこからよみとる運命も人それぞれなんですよ」

 てよみをしていると、こんな話をすることがよくある。手が人間にとっていちばん身近な道具なのは言うまでもないし、どんな道具であれ、使い込んでいけばその人のクセが染み込み、その人らしさが刻まれる。そう考えると、靴のかかとのすり減り具合でその人の歩き方を推測するのと同じで、手に刻まれた線や丘のふくらみから、その人の運命をよみとるのもそう不思議なことではないと思う。 

 ただ、自分で言っていていつも少しひかかっていることがある。それは「まったく同じ手相というのはありえない」が、みんなどこか似ているのも確かで、とんでもなく人間離れしている手、肉球があるとか、鱗が付いてるなんていう人はいないということ。つまり、人間である以上、みんな同じように人間っぽい手をしている。 

 ねこの肉球占いというのをネットでみたことがあるけど、正義感が強いとか小心者とか猫にもいろいろあるらしい。しかし、そんなふうに分ける前に私たちは「猫ぽさ」というざっくりとしたイメージを持っている。「あのコ、猫っぽいよね〜」なんてみんなで誰かをウワサをするときに、説明しなくてもその場にいる誰もがその「猫っぽさ」を共有している。

 生きものにはその形態にあった性格というのがある。大きい人がのんびりしてて、小さい人がすばしっこい、なんていうのは、そのままゾウとネズミなんかに例えられる。ちなみに手相でも、大きい手の人の方が慎重でおっとり、小さい手の人の方が行動的で大胆、とよんだりする。

 その生きものらしさというのは、物理的な面から培われるものも大きい。例えばネズミがゾウくらいの大きさで、そのままのすばしっこさで生きていたら、単純に大迷惑でしかない。小さいからこそその素早さが光るのだ。

そう考えると、食ったり食われたりはするものの、ただ生きているだけで地球を破壊するような無鉄砲な生き方をしている生きものはおらず(人間以外!)、実にどの物もいい塩梅にできているようにも思える(中には素早いゾウも、のんびりしたネズミもいるんだろうけど)。

 では、人間っぽさってなんだろう? 猫たちがウワサをしている。
「アイツさ、最近ちょっと人間っぽくね?」
「っぽいよニャー、この前なんか、時間がどうのとかっていってたニャ」
「え、時間って人間が一日ってのを24コに等分して数えてるやつか」
「ん? そ、そうかニャ……。あと、アイツ、昔ってやつの話もするニャ。昔はネズミ捕りで有名であちこちの家に引っ張りだこだったとかって」
「昔って、つまりあれか、今がどっか向こうっ岸に行ったやつか」
「んーと……、あのさ、今って今だよニャ?」
「だからさ、今がそのうち昔になるんじゃね?」
「んじゃ、昔って今なの? ってか、やっぱアイツ、なんか面倒くさいニャ……」 

 ねこの肉球占いには流年法(時をよみとる方法)がないようですニャ。