《1,000の手と空(くう)》 (1995年)
1000もある手はヒンドゥー教のガネーシャ(象の顔をして4本の腕を持つ神)の手から着想したそうだけど、このインドの美術家 N・S・ハルシャの作品を目の前にしてすぐに思い浮かんだのは、日本の神話の古事記における「中空構造」についてだ。
「中空構造」は心理学者の河合隼雄さんが唱えたもので、著書の『中空構造日本の深層』に詳しく、この本を何度読んでも脳みそがでろでろになってしまう私が説明できる立場ではないのを承知で、すごーーっくざっくり解説すると、、、
古事記に出てくる神様はだいたい3人組で、山幸と海幸なんかが有名どころだけど、そのあいだに、なんにも活躍することもなく、なんかいるだけ〜というナゾな神様が必ずいる。なんにもしてないので物語にもほとんど語られていない。しかし、そんな力を持たない空虚な神様が真ん中にいることで、あとの2神の敵対関係が成り立たないようになっている、、、、というのが中空構造のざっくりとしたところ。
このことから、中心に曖昧な空(くう)がある構造こそが日本人の心のプロトタイプなんじゃないかという考察になるんだけど、そんなに難しく考えなくても、私たちはふつうに見えない「空気」を読んだりする民族なわけで、個人の個性の尊重よりも、場の空気の平衡を思わずとろうとしちゃう、そんな心の構造が日本の神話から読み取れますね〜ということ。
話は少しそれるけど、建築家の藤森照信さんが、人間が持っている 権力、お金、名誉の3欲を分立させた「三欲分立」は、戦後の日本人の大発明と言っていて、そうか!と膝を打った。
「権力」を持つ政府、「お金」を持つ財界、「名誉」を持つ天皇という構造は、まさしく中空構造に通じている。河合さんの本にも「天皇は第一人者ではあるが、権力者ではない、という不思議な在り様が、日本全体の平和の維持にうまく作用している」とある。このことは反対に、「三欲一致」の状態――財と名誉を持った権力者が統治している国を思い浮かべると、日本のある意味奇妙な平和性が際立って見えてくる。
ハルシャはインドの人で、宗教やお国柄からくる感覚はまた日本人とは違うだろうけど、存在するものの真ん中に空(くう)を感じとるところは日本人と似ているのかもしれない。
そして、存在の真ん中が空(くう)だという構造は、宇宙の広大な空間でも、ひとりの人間の小さな世界でも当てはまるような気がする。もっとも小さな世界と、もっとも大きな世界はよく似ていたりするから。
ハルシャの作品に野生動物と人間が同じミールス(南インドの定食のようなもの) を並んで食べている絵がある。
《人間的な未来》 (部分/2011年)
これは、「動物も人間と同じように欲望そのままに貪っている社会とは、どのような社会だろうか」という着想から描かれたものだそう。この絵が放つユーモアと悲哀はなんだろう?
ミールスをおとなしく食べているライオンは、本来、シマウマなんかを襲ってガブリと荒々しく生肉を食べているわけで、その姿こそ「欲望そのまま」ではないのか?と、一瞬思ってはっとした。
それは欲ではなく本質なんだ。つまり「本能」であり、そこにどんな意味があるかなど、ライオンは考えない。たぶん。
欲望には意味がつきまとう。人は食事をするときにだって、空腹を満たす以外にいろんな意味を付け加えがちだ。「カラダにいい」なんて意味は大人気だし、食事に付随する価値(インスタ映えするとか!)は、本末転倒にそちらの方が重要視されることもある。そしてそんな意味たちは、私たちを満足もさせるが疲れさせもする。どこまでいっても永遠に広がる意味の海に足をとられて溺れそうになることもある。
中空構造である人間にも真ん中に曖昧な、それでいて確固たる空があるなら、意味ばかりで疲れてしまったらそこに逃げ込めばいい、と思う。私の場合、それはたくさん寝ることなんだけど、ひたすら山を登るとか、口の中の飴がじわじわ溶けていくことに集中するとか、とにかく欲望ではないところで生きている状態にひたるといいんじゃないか?(これはまだ考え続けていることだけど)
ちなみに、空(くう)にひたる自分の無意味性について落ち込む必要は全くない。もともと生きることに意味なんてないと言うと、皮肉好きのニヒリストのようだけど、けっしてそういうことではなくて、意味のないことの豊かさが自分のなかの空(くう)にゆらゆらとオリのように漂っているイメージ。矛盾しているようだけど、なんにもないこと、分からないことの豊穣さってきっとある。
手のひらでいえば、薄くてもやーっとした運命線みたいなものかもしれない。曖昧なその線には、どうにでも描くことができる未来が無限に秘められている。
1000の手の絵をよく見ると、どの手のひらにも中にやわらかいおもちみたいなものが描かれている。これも空(くう)を表しているのかな?
手のひらに空(くう)を!
それはなんか希望のようなものに似ている気がする。
*藤森照信さんのことばは「ほぼ日」から引用させていただきました。
http://www.1101.com/tokyo/fujimori/2017-04-14.html