五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)のなかでコミュニケーション選手権をしたらどれがいちばん強いだろうか?
ふと、そんなことを考えた。
やはり、情報伝達量ぶっちぎりの視覚だろうか? いやいや、耳元でささやくなど親密ワザもある聴覚なのでは? でも、においの記憶というのはいちばん忘れないというし、おいしいというアプローチに勝る好意もなかなかない。
しかし、見る、聞く、嗅ぐ、食べるよりも、ずっと他者を必要とする五感といえば触覚、「触れる」ではないだろうか。
例えば、片思いの人に触れたときのドキドキは、その人を見たり、その人の声を聞いたり、その人のにおいを嗅いだり、その人の作ったお弁当を食べたりしたときのドキドキよりも勝る気がする(まあ、どれもドキドキはするだろうけど)。
触れるという行為は、触れたとたんに触れられているという点で、とても不思議な感覚だ。何より、見ること(映像、写真)や聴くこと(音楽)みたいにコピーしたり電波にのせたりできないし、においや味みたいに容器につめて届けることもできない。直接的で、動物的で、相手(対象)がそこにいなければ成立しない、五感のなかでもいちばん不自由な感覚ともいえる。
てよみをしていてお客さんの手のひらに触れていると、その厚み、質感、温度、湿り気などが私の手のひらにじかに伝わってくる。そこには、言葉未然の情報がたくさん宿っていて、私はそれらを自然によみとることとなる。お医者さんやマッサージ師など人の身体に触れる仕事の人は、きっとみんなそういうことをしているのではないかと思う。
人に触れて(触れられて)感じとること。そこから言葉にして伝え合うこと。その往復運動で、コミュニケーションは深まっていく。
手相は「相術」という分野の占いで、顔相や風水などと同じく“ものの形”から占うものだけど、相手に触れながら伝えるという意味では唯一無二の占いだと思う(もしかして足をおさわりしながら占う人とかいるかもしれないが)。
コロナ中に「てよみのてがみ」と称して、手相の写真を拝見してお手紙を書くという形式のてよみを試みたことがあったけど、目だけの情報にとてもいきづまった覚えがある。写真のなかの手をガン見して、やわらかさや質感をなんとかイメージし、やっとこさ言葉をおろしてきたような感じだった。正直、もうあまりやりたくない。
ということで、私のてよみは対面のみです。てよみ中は遠慮なくあなたの手をぷにぷにしまくります。コピーも、早送りも、箱につめて持って帰ったりもできない、とても不便な占いですが、ネットにはのっていないあなただけの情報を知ることができるかもしれません。
ご機会あればどうぞおたずねくださいませ。
その手のひらには何が書かれているのだろう? |