現在、私はこのキレギレの健康線に加え、エネルギータンクである親指の付け根もひ弱にしぼみ、手のひら全体に痩せて薄くなっている。自分てよみ史上、最も弱りきった我が手といえる。
手のひらとはこんなに正直なものなのか!と、7年前にも抱いた境地がさらに強化されて再び襲ってくる。
病気になったり、家が貧乏で憂い目にあったり、突然の不幸に見舞われたり、人生には残念ながらネガテイブな局面というのはある。そんなときに「あなたにはそんな辛いことも乗り越えられる強さがあるからカミサマがそうされたのよ、だから大丈夫!」的な文脈で励ますようなことをいう人がいるけど、本当にやめてほしいと思う。
たとえその試練がその人のその後の人生の糧となったとしても、それは結果そうなっただけのこと。目の前に辛いことが起きたからどうにか乗り越えたのであり、もしかしたら乗り越えられなかったのかもしれず、最初から、意味や、カミサマの思し召しが用意されていたわけではない。意味があるなら、それはあとから自分でみつけるものだ。
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作業療法でいつも一緒になるご高齢のOさんは、私が退院して元のように右手が動くようになったらクッキーをつくりたいと話すと、「そういう希望のある話はとてもいいわね」とにこやかに言った。
Oさんは、動かなくなった右手の痛みを緩和するためのセラピーを受けている。私は1ヶ月かけてここで少しずつ右手が回復してるけど、Oさんの右手はもう動くことはないらしい。
Oさんによく「若い人はいいわね」と言われるのがちょっとうざったかったけど、本当に心からそう思われているのだと、やっと分かった。若いとは、希望がある、ということなのだ。
だから、若い人が希望を失ってしまったようなニュースに触れると、とても落ち込むのかもしれない。それほどむごくて不自然なことは他にはないからだ。
私も若い(といわれている)うちにもっとがんばりたいと気持ちが広がる。それと、若い人が当たり前の希望を失わないように、自分にできることが少しでもないだろうか。私がてよみをする意味があるのなら、それなのかもしれない。
とりあえずはリハビリがんばって、退院したらクッキーをつくろう。
病室のベッドの上にて |
追記:今日の作業療法で、Oさんに「ワタシが退院したらアナタのクッキー買えるかしら?」と聞かれた。私の作る猫型のクッキーの名前「デジネコクッキー」もすっかり覚えられていた。Oさんを勝手に高齢者にひとくくりしていた自分が恥ずかしい。Oさんだって十分にお若く、希望みなぎっていて、私もうかうかクッキー制作を先延ばしにしてはいられない。
作業療法室のステキな猫画 |