6月の雨の日曜日、私は朝からクッキーを作っていて、そんな姿をみた家族に「元気になってよかったね」と言われる。
一年前の同じ日の朝、私はストレッチャーに横たわっていて、手術室の前でその扉が開くのを家族と一緒に待っていた。
自分としてはうすらぼんやりとした記憶でも、家族はありありとこの日のことを覚えているらしい。8時間におよんだ手術に至るまでと、その後の数ヶ月、この家族にどれだけの心配と病院へのご足労をかけたことか。
あのときのことを思い返すと、いま麺棒で伸ばしているクッキー生地がクレープみたいにペラペラになりそうなので、私はなま返事をして、次の型抜きに気持ちを向ける。
私の右手の小指と薬指は、あれからずっとしびれている。脊髄に腫瘍ができて手術で無事にとってもらえたけど、腫瘍をとるときに右手につながっている神経も少し傷めたので、「しびれ」という後遺症が残った。
しびれというのは痛みではないのでツラくはない。指の動きだって問題はない。大変ね、と言われたらそうでもなく、かわいそうに、と言われたら居心地わるい。
でも、フツウかといえば、フツウではない。
我が家の浴室の白くウロコ状にくもった鏡を見るたびに、しびれているみたいだな、と思う。
鏡には自分らしきものがぼんやり映っているのだけど、それが仮に自分ではなかったとしても、鏡がしびれているからおそらく分かるまい。おかげで自分の裸体を直視しなくてすむから、鏡はあえてしびれたままにしている。
こんなふうにしびれているせいではっきりしないことが、生活の中には、ままある気がする。とくに、心なんてちょいちょいしびれているのではないか。
傷ついたり悲しかったりしていても、自分でちゃんと気がつけないとき。いま自分がツラいのかもしれない、となんとなくは分かるのだけど、この「かもしれない」というのが、心のしびれのような気がする。
医者にきくところによると、しびれについては医学的に解明されてないことが多いそうだ。おそらく「しびれ」には、「痛み」のように生きる上での差し迫るものがないから、研究もそれほど進まないのだろう。
この一年ばかり、右手や鏡や心のしびれと過ごしてきて、私は、徐々にそれとなく、しびれのことを受け入れていった。
退院したばかりでなにも手につかず、ただただ残暑に包まれた家の中で過ごしていた頃、やたらとしびれが気になったこともあった。自分の右手を左手でビタビタと叩いたりもした。思えばそれは心が敏感すぎるときだった。体や頭が暇になると、心は活発になる。
心のヤツの好きにまかせると、ささやかなこともふくらんで、いたずらに深刻にしてしまうこともある。心を無視してはいけないけど、心に重きを置いていると、生活はしんどい。
心のことはさておいて何かに夢中になっているとき、心は軽やかに健やかだ。多少しびれていても支障はない。
この日、すっかり右手がしびれていることも忘れて作ったクッキーは、我ながらうまくできた。家族にもよろこんでもらえたようだった。
てよみクッキーの型抜き。 ちょっとマティスの図案ぽくて好きな一枚 |