年に一度、検診で大きな病院を訪れる。5年前にちょっと珍しい脊髄の手術をして、いまは嘘みたいに元気だが、検診だけは毎年来なくてはいけないらしい。
清潔で明るい病院のロビーに並列した椅子には、その静かな空間にそぐわない実に多くの人たちが座っている。受付の人に待ち時間が長いと絡むおじさん以外は誰しも無表情で、いつか自分の番号が浮かび上がるはずの診察室横のモニターを眺めるとなしに眺めている。
痛みや不調を抱えた人たちがこれだけいて、それをよくしてくれることを望んでみんなここに集っているのだ。見知らぬ人たちのあいだに妙な連帯感が漂う。
「あなたも何か大変なんだね」
そう思うと、受付の人に絡んでキレて帰ったかと思ったら戻ってきたおじさんに対しても、心なしかやさしい気持ちになれる。
人はままならない生き物だ。生きている限り生きようとする。いつか死ぬと分かっていても、大体の人はいま生きることを最優先する。
そして、目の前に生きている人が、ずっと生きていてほしいと切に願う。
この人間らしい、理屈ではとらえられない心もようはどこからくるのだろう? 猫にもそんな感慨はあるのか?
最近よく聞く「地球にやさしく」というフレーズが苦手だ。一体どの立場から言ってるんだろう?と首をかしげたくなる。
本当に地球環境を守りたいなら、極論をいうと、人類がいなくなった方がいい。生物が滅びることだって自然のことわりなのだから、別に嘆くことではない。
「地球にやさしく」しなくてはと言ってるのは、この先も地球に生息したい人間側の都合である。だったら地球にはもっと謙虚な言い方をするべきではないか、と思う。
「いままで本当に申し訳ありませんでした。以後、態度を改めるので、もう少しここ(地球)に住まわせてくれませんか?」
まるで不倫あとの懺悔だ。
そんな地球への弁明をぼんやり考えている私は、人類が滅びるまではできるだけ健康に生きていくため、モニターに自分の番号が表示されるのをひたすら待っているのである。