2020年9月13日日曜日

インドでてよみ採集

 日本人とフランス人とインド人がいたら、言われなくても誰がどこの国の人かは見当がつくだろう。身体の構造は同じでも、髪や目や肌の色、骨格の感じ、ざっくりした雰囲気までも少しずつ違う。私たちはそんな違いを一瞬で感知したりするけれど、その違いってどこからくるのかよくよく考えると不思議だ。「国」なんて人間が勝手につくった枠組みでしかないのに。

 個人のあり方に生まれ育った環境はどのくらい影響しているものなのだろう? お国が変われば手相の感じも変わるものなのか? そんなことをぼんやり考えながら、2019年の年末にインドを訪れた。北のデリーからジャイプール、南のチェンナイと巡る旅中で、「手のひらの写真を撮らせて!」と現地の人たちに身振り手振りでお願いをし、たくさんの手のひらを採集することができた(インドのみなさんありがとうございます!)。


デリーの女の子たち。はにかみながらも手のひらを見せてくれた。

 インド人の手でいちばん印象的だったのは、手のひらに流れる線の濃さだ。アーユルヴェーダコスメショップのお姉さんも、青いシャツを着た学生たちも、アンベール城の警官も、交差点で車の窓をノックしてくる物乞いの女の人も、とにかくみんな線が濃い。日本人の線がHBの鉛筆ですすーっと描いたのものだとすれば、インド人の線は彫刻刀で彫ったよう。もちろん日本人にだって濃い人はいるけど、彫刻刀レベルはそうそういない。

 線の濃さは生きるエネルギーの強さ。しっかり握られている赤ちゃんの手には、くっきりとした線が刻まれている。そんな無垢な生命の塊から人生がスタートして、大人になるにつれて悩んだり迷ったりして線がもやっと薄くなったり、中年も過ぎると生きようを刻んでまた濃くなったり、老年を迎えれば肝が据わるのかぐっと彫り深くなったりと、世代による濃淡があるように日本では感じていたが、インドではそうでもないのか? 赤ちゃんからお年寄りまでみんなみんな濃い人ばかり。全世代全力模様である。


 こちらは自撮り大好きな男の子たち。手の線も眼差しも濃すぎ

 もうひとつ、インド人で多く見られたのが、広くて厚みのある金星丘(親指の付け根のふくらみ)だ。手のひらのホームにあたるここが発達している人は、肉親や故郷などの家縁が強いといわれる。

 ジャイプールで見せてもらったブロックプリントの職人たちの手もそうだった。深い生命線に取り囲まれたたくましい金星丘は、代々ずっと1つのことに打ち込んできた人の頑なさを語っているよう。繊細な絵柄が彫られた木のブロックを均等に繰り返し捺すことで、布一面に鮮やかな文様をつくりだす。その高度で綿密な技術が蓄積した手には、磨かれた古木のような艶があって、惚れぼれとする。

彫刻職人の手。張り出した生命線に囲まれた広くがっしりした金星丘。
 
捺染職人の手。甲羅のように硬くなっているマメをドヤ顔でみせてくれた。

 インドではいまだにカースト別のお見合い結婚が多いそうだけど、男の人たちの結婚線がみんな1本だったのも興味深い。職人のおじさんたちも、レストランの老支配人も、生地問屋のお兄さんも、通りすがりのイカつい観光客も、みんな揃ってくっきり1本(ちなみに女性はみんな複数本あった)。日本で1本くっきりという人はそこまで多くはない。結婚観の違いがやっぱり出てるのか? でもなんで男の人だけ?


結婚線が見事にくっきり1本の職人の手。
 
こちらも1本!ちなみに刺青は奥さんの名前だとか。

 この旅で私が見ることができた手のひらは、インド全人口13億人(!)中のたった数人だけだし、これでインド人のことを総括して分かったように語ることはとてもできない。ただ、この数人だけでもこんなに似ているところがあって、日本人の傾向とぜんぜん違うのは明らかだ。インドでも日本でも、きっとどこの国でも、その国らしい手のひら、パーソナリティというものがあるのだと改めて思う。

 誰もがたまたま生まれついた国のなんやかんやを我が身に落とし込み、抗い、生きていくなかで、どこまでが環境や育ちの影響で、どこからは本人の意思からできた「自分らしさ」なのかを判別つけることは難しい。占いは、それらを宿命とか運命とかいって解き明かそうとするけれど。

 犬もところ変われば生き方が変わるらしい。

 「自分が何を一番大切にするかが、その人の自分らしさになる」と、ある作家が言っていたのを思い出す。これは単位をかえて、国でも会社でも家庭でもいえることだろう。

 同じ社会で一緒に暮らすことで否応でも大切な事柄を共有し、共同体としての「らしさ」が育まれ、個人の「自分らしさ」に取り込まれていく。逆に、一人の人間の「大切なこと」が感染していって、共同体の「らしさ」に影響することもある。「自分らしさ」も相互作用でできているとなると、完全に切り離された「個」なんてありえない。好むと好まざるとにかかわらず、私たちはみんな隣人とつながっている。


牛も犬もつながっていた。

 街中は朝から晩までクラクションが鳴り止まず、車道は全員あおり運転状態迷って道を尋ねれば知らなくても教えてくれるし、通りを歩けばあれもこれもと売りつけてくる人、人、人。道端では犬が寝転び、猫は鋭い目線を向け、牛はウンコを垂れ流す。そんな混沌とした息遣いのなかに、定規を使って商品の箱を寸分狂わず陳列する静謐さや、凛とした紅茶の味わいや、ハンドメイドの絵本の息をのむ美しさや、大きな送り荷を白い布で包んで瞬く間に縫い上げてしまう緻密さなんかが、矛盾するしない関係なく平然と同居している。

 空気の読みようなんてなく、いればいるほど謎めいていて、ちっともうかうかしていられない。そんなインドに腰を据えてみたら、ぼんやりとした日本人の手のひらの線も、にわかに濃くなるのかもしれない。

夜のニューデリーを駆け抜ける