結婚という制度にこだわらず、ゆるめな家族をつくる人たちの話を最近ちょこちょこと聞く。一人一人は自立していてお互いふだんは深入りしないが、困ったときには助け合う。気兼ねのない友人とあえて家族になるような感じだろうか。個人どうしの結び付きで籍も入れないので結婚ではないのだけど、何がちがうんだろう?
「結婚」ってなんなんだ? と改めて考える。
手相には「結婚線」という名の線がある。小指の付け根の側面下に横切る線で、この線の位置や数で結婚する年齢や回数、相手のタイプなどをよみとる。ただ、結婚線は「結婚」といいながらももう少し広い意味での「縁」をよむ線なので、そのまま結婚を意味するとも限らない。となると、この「縁」ってどこまで含んでいるのだろう?同性・異性にかかわらず気の合う人との「縁」もあるし、恋愛感情や性的欲求のないパートナーと結ばれる「縁」もある(いま「え?」と思われた方は、能町みね子著『結婚の奴』やアルテイシア著『離婚しそうな私が結婚を続けている29の理由』などを読んでみてください)。愛し愛されるということで言えば、愛犬や愛猫との「縁」だって手に刻まれるかもしれない。
「縁」のカタチも色々で、そもそも特定の相手と結婚する、パートナーになるということ自体が必ずしもすべての人に向いているわけでもない。
手のひらをよんでいて、特定の相手がいない状況の人に「結婚はどうですか?」ときかれるとき、私の思考は下記のようにめぐる。
①結婚したいと思っているのは環境(周囲からの影響や圧力)のせいなのか? 本人の意思なのか?
②環境だとしたらその環境に逆らった方がいいのか? 従った方がいいのか?
③本人の意思だとしたらその根源はどこから来ているのか? さみしさ? 憧れ? プライド? 子どもがほしい?……
④そもそも本当にこの人は結婚という生き方に向いているのだろうか?
その人の心が求める方向をうんうんと辿っていって結局④の問いにぶちあたり、「あなたは結婚にこだわらない方がいいかも」とお伝えすることもまあまあある。
昭和初期に書かれた手相の指南書なんかには「この相が女性にあると強すぎてよくない」とか、「妻にこの線があるとかかあ天下になる」など、女性蔑視的な解説がしれっと書かれていたりするが、だいたいが「自立心が強く自由でいたい人」といった意味合いだったりする。「女は男を支えるもの」という前提あっての解説にマジ辟易するが、ともかく、女でも男でもこういう手の人は、一人でのびのびと暮らした方が楽しいのではないか、と思う。
もちろん結婚に向いている人もいる。依頼心が強い人は一人だと心細いので常に誰かと一緒にいたいと思うし、逆に人に頼られることで自分が活性化する人もいる。自分のことだとサボってしまう人も、家族や人のためだと頑張れたりとか。もともと結婚を望んでいなくても「縁」のある人と出会うことで自然と家族をつくる選択をする人もいるだろう。
チーム競技と個人プレイ、どちらが得意であってもそこに優劣はない。それに、味方がいる心強さがいつしか煩わしさになることもあるし、自由に我が道をいくことに孤独を感じて足がすくむこともある。またそれぞれ逆もしかり。良いも悪いも表裏一体にしかありえないのだから、どちらにしても、自分の行った道を自分で「いいね!」(がむずかしくても「悪くないね!」)とできるように開拓していくしかない。
バリバリに昭和を生きてきた母にきくと、昔は結婚が向いているかいないかなんて考えるまでもなく、「そういうものだから」という世の風潮で結婚するのが当たり前だったという。深く考えず、若いうちに手を打ってしまうのも、産めよ増やせよの時代には得策だったのかもしれない。
でもいまもうそれムリじゃね? と思います。
ジェンダーのことを一つとってもスタンダードなんてないということを私たちはもう知っている。すべての人間が幸せの指針とする「そういうもの」なんてありえないのだ。人の数だけ生活のスタイルがあっていいし、制度や型や風潮にハマらない分かりづらい生き方を恐れる必要もない。それぞれ自分なりのやり方で「縁」を築いていけばいい。
そろそろ「結婚線」の呼び方を変えるときなのかも。